英文小説の和訳作業を終えて 小芝 繁
司馬遼太郎の小説は、「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」、「菜の花の沖」、「木曜島の夜会」、……、学生時代から取り止めもなく読んだ記憶はありますが、「最後の将軍」は覚えがありません。
たまたま数年前にアマゾンのネット販売でその英訳書を見つけて衝動買いし、数ページ読んだだけで棚ざらしにしていました。それに気づき、原作未読を逆にこれ幸いと、その和訳を思い立ったのが昨年(2019年)10月。
ハードカバーで、細かい文字列ぎっしりの文章が正味266ページに及びます。現状の自分にとっては格好のチャレンジ材料ではあるとしても。
正直とても片手間の安気な作業と言えず、だから完訳といった目標は毛頭なく、暇に任せて一日1~2ページを訳してはホームページに残してきました。英文小説「The
Last Shogun」( 英文翻訳者:ジュリエット・カーペンター氏、和文翻訳:小芝 繁)として。
遅々たる歩みで、心穏やかならず肩もこる、独りよがりの巣ごもり作業。それも途中野暮用で、春から夏にかけて3ヶ月ほど中断せざるを得ず。が、有り余る気ままな自由時間に助けられて挫折の思いは一切なし。
この9月初旬にラフ原稿ながら一応の全訳にこぎつけました。
すぐ後に2週間ほど加筆修正の見直しを行い、それが済んで、2度目の見直しを兼ねて全文を朗読。トータル11時間は超えました。
その後その朗読をも手助けの一員にして見直し・手直しを繰り返し、ようやく只今(10月20日)本作業終了となりました。折角ですから朗読も残したく、これから最終の3度目を開始。80才のだみ声丸出しも一興との思いで、長期間をかけた作品の仕上げとします。
本作品、傘寿(80才)の思い入れを込めてこのホームページの2箇所に掲載します。この「雑記帳」広場に「第130話」としてと、「ぼくの半生記」広場に「傘寿(80才)の手土産」としてです。
わが「中高年の元気!」の他の広場、他の作品はともかく、この英文小説翻訳だけは私の独りよがりとして、自分自身のために残すものです。理由は言うまでもなく、どなたであれ、この物語自体にご興味ある方は、司馬遼太郎の原作「最後の将軍」(文春文庫)か、ジュリエット・カーペンターさんの「The
Last Shogun」(Kodansha International)をお読みになるべきですから。
2度目の見直しを終えるまで、司馬遼太郎の和文原作を1行たりとも目を通すことをはばかりました。翻訳された英文のみに固執した結果です。
最後の見直しのあと、次の箇所に関し、原作と英文双方を見比べたり、明らかな誤訳の修正を行いました。
* 人名、役職名
* 英文では私に意味不明の文章、語句
* 英文で明らかな矛盾を感じた箇所
当然、いつまでも自分の和訳に不満は残りますが、所詮実力のなさ。ですが、この和訳の原本であるカーペンターさんの英文翻訳書における比較的自由闊達な和文原作からの飛躍及び独自性にも助けられて、私の和訳も原作とはかなり違った次元の文章、表現に至った、等々、内心自己満足の思いもあります。
…………
ここで私的なことを書き残します。この小説の幾つかの部分と私の過ぎ越し方の間に意外な接点を見つけたからです。披瀝するほどのことではないかもしれませんが、ご容赦ください。
一橋慶喜が主人公ですから当然でしょうが、この物語で〝Hitotsubashi〟の名が頻繁に出てきます。都下国立市にメインキャンパスを持つ大学の名と同じ。何あろうぼくの母校です。受験当時英語が好きで、将来の英語教師を夢見て、この大学と東京外語を受験したのでした。
入学と同時に学問の夢覚めやって、在学の4年間を無為徒食で過ごし、なんとか卒業はできました。
本校が以前に〝東京商科大学〟という学校名だったくらいは知っていましたが、それ以上の知識も探求心も持ち合わせませんでした。
45才で脳梗塞を患ったことが主原因で、25年間勤めた大同特殊鋼を48才で自己都合退職し、自営業を始めました。業務ソフトの運用指導とNHK文化センター(東陽町)のシニア向けパソコン教室担当を主業務としてそれなりに東京江東区の一企業としました。
その〝株式会社コシバ〟も還暦の60才(2000年)で信頼するY君に譲り、ビジネス社会とお別れしました。
大学卒業からそこに至る詳細は、「ぼくのサラリーマン25年」という自伝小説まがいにしてあります。(「雑記帳第132話」)
数年前(1997年頃)に開設した自分史的ホームページ「中高年の元気!」にいそしんでいたら、大学母校の同窓団体「如水会」の理事T氏から打診がありました。「太平洋戦争勃発のあおりで昭和16年(1941年)12月に翌年春の卒業を繰り上げして即兵役を強いられた先輩たちがそれぞれの波乱の人生をホームページに残そうとしています。助けてあげてくれませんか?」、と。
2001年の大半をその仕事に没頭し、年末12月12日に如水会館(東京千代田区竹橋)で、ホームページ「十二月クラブ」として大勢の同窓関係者に披露しました。
これが機縁となり、その同期会「十二月クラブ」の中心人物たる中村達夫氏の親交に預かることになり、ぼくにとっては単なる母校でしかなかった一橋大学が目の前で大見えを切ることになります。
スーパーニッカのオンザロックをたしなむ中村先輩が、月に一度は如水会館14階の「一橋クラブ」か鎌倉のご自宅にぼくを呼んで、一献傾けながら、母校、とくにその起伏に富んだ歴史・由来を熱心に話してくれました。
そして2004年。「兼松講堂の背景をなす由来を知らずして、一橋を母校とは言えない」とし、半ば強制的にぼくを引き連れ、先輩の思うところを訪ね回りました。
* 国立キャンパスの兼松講堂…内外部を隈なく見学、調査。とくに内部、2階から地階にかけて至るところに施された怪獣・お化けの彫刻群。
* 同年初、改修に携わった業者・三菱地所…本社で資料を前に事情聴取。初代建築業者・竹中工務店責任者も出席
* 王子飛鳥山の渋沢資料館
* 築地本願寺…兼松講堂設計・建築者の伊東忠太が建築。随所に兼松講堂との共通点あり。
……
この体験をもとに、死の病に伏した中村先輩のたっての依頼で小説風作品にしたのが「怪獣の棲む講堂物語」(「雑記帳第116話」)です。
「The Last Shogun」の和訳を終えたいま、第17章「逃亡と余波」後半の次の文章が私の目に焼き付いています。
…… 彼は昔の家臣に会うのを嫌った。
もし会えば、何らかの発言をせざるを得ない。どんなことでもそれが人づてに伝わり噂されるのを恐れた。彼が気軽に会った昔の家臣は渋沢栄一と勝海舟だけ。彼らはいわば彼と明治新政府との仲介役だった。1877年頃、渋沢が永井尚志を伴って会いに来た時、渋沢だけに会って、永井は遠ざけた。……
明治新政府の世になって、徳川慶喜はそれから長く静岡県の田舎で隠遁生活を続けますが、その間親しく会った旧知が渋沢栄一と勝海舟だけだったとは。
10数年前に心身ともに力をすり減らしたあの自著「怪獣の棲む講堂物語」のこんな箇所が思い浮かびました。徳川慶喜がいてこそ、この二人の接点があり、次の話が生まれ、ひいてはこの学園の歴史につながった!
* 渋沢栄一(27才)…1867年、徳川慶喜の依頼で、その弟昭武(当時14才)に同行してパリ万国博覧会に出席。1年と少し同地に滞在して西洋文化を味わう。明治維新による徳川幕府崩壊で、急きょ帰国。後、現在につながる500もの会社を創立する傍ら、商法講習所の開設をはじめ、学問の普及にも尽力した。
* 一橋大学の原点と云えるその「商法講習所」の設立。渋沢栄一が発起人の中心。福沢諭吉による起草文。初代所長・森有礼。渋沢はこの私塾が国立大学になるまでの度重なる危機を体を張って救った。
* 勝海舟…商法講習所の米国人講師ウィリアム・ホイットニーと帯同したご家族の面倒を見た。後に息子がホイットニーの娘クララさんと結婚し、6人の孫に恵まれた。
以上、自らの備忘録とします。
…………
ということで、本作品、80才(傘寿)の一里塚とします。高血圧、前立腺肥大、心拍異常、……、年齢相応の不具合を抱え、近々ペースメーカー挿入も医者に勧められている今日この頃です。
次は何に取り掛かろうかな? 新型コロナのおかげで長らく途絶えている気軽な旅行を待ちわびる中、この作品の作業過程を含めて、エッセイ「傘寿、今日この頃」も一つの予備軍です。
令和2年(2020年)10月20日
(朗読完了:10月27日)
英文和訳作業を終えて 朗読 17:06
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