慶喜を役者に見立てれば、…事実そのとおりで、立派な役者そのものでもあった…、彼の姿はまさに幕の下りない舞台上にいた。
新選組による池田屋旅館の襲撃と堀川での平岡暗殺は、1864年7月、同じ月に起こった。そしてその月末、長州勢は船で大坂方面に進み、大坂湾に上陸して、首都を目指した。到着と同時に、彼らは3方向の道をふさいで市中を取り巻き、北への道だけを開けた。宮中では皇族たちが天皇にその道を通って比叡山に避難していただくかどうかで激論真っただ中だった。廷臣や侍女たちは宮廷内を右往左往し、風評によって前例のない混乱を引き起こしていた。
宮廷保護長官として、慶喜は京都の混乱を鎮圧すべく多くの藩の兵力を率いる任務を授かっていた。さらに彼はこうした戦乱にも関心があった。当時の彼の心の英雄は、アメリカ合衆国生みの親たる市民大統領のジョージ・ワシントンではなく、フランスを統治し、皇帝になる前は外国勢に負けたことのないナポレオン1世だった。依然としてしばらくの間、慶喜は兵力を皇居の回りに留まらせ、動かそうとしなかった。遂に彼は毅然として長州に自らの意志で撤退するように仕向けた。3週間対立が続いた。夜中は長州勢の野営から出る炎が西へ南へ空を赤く染め、その光景に宮中は震えた。
慶喜が長州とつるんでいるのではないかとの噂がぐるりばかりでなく幕府でも会津や薩摩勢の中でも広がっていた。世間の噂では、目的のためには手段を選ばないマキアヴェリズムの陰謀家たる慶喜が内密に長州と手を組み、この出来事を帝国崩壊に向けて利用しているのだろう、ということだった。尊王攘夷はかつて水戸勢の旗印で、今やその継承者で実戦部隊は長州勢だ。何故慶喜は彼らを侮蔑するのか? 世間は戸惑っていた。
事実、慶喜はこの2藩との関係で偏見なしとは言えなかった。薩摩は死ぬまで嫌ったが、超国家主義の長州に対しては何ら恨みを持っていなかった。後年、彼はその違いをこう説明している。
長州はある意味純粋無垢だった。最初から彼らは反徳川を旗印として高く掲げ、われわれの敵であることを鮮明にした。これが私が彼らを好きな理由だ。薩摩は違った。最後の最後まで彼らは公武合体を金科玉条とし、私の盟友だと言い張り、猫なで声で寄り添って、その最後の最後に短刀をキラリと光らせて鞘払いし、幕府の心臓に突き立てた。そんな巧妙さに私は煮えくり返る。
いまも同じだ。長州を全滅させるチャンスと見て、薩摩幹部はハヤブサのごとき攻撃をもくろんだ。それは熱烈さにおいて忠実なる将軍派の会津を上回っており、いまにも自藩だけででも急襲するように見えた。薩摩の統領西郷隆盛は自藩に書状を送って、こんなうわさが広まっていると注意した。一橋公が長州とつるんでいるらしい。
薩摩が本件に目を光らせる絶対的な理由がある。長州勢が首都を取り巻いている光景は、中川親王と前摂政近衛をぎょっとさせ上ずらせた結果、二人とも今にも忠誠の急転換をしそうだった。そんなことになったら、宮中での薩摩の力は一夜にして消え失せてしまう。一橋公が本当に長州とつるんでいるとすれば、宮中の幹部は追随していくことになろう。そうなれば、薩摩は、幕府と長州勢の同盟軍によって門戸が開かれたと知ろう。
「薩摩がじっとしていられなくなっていると思われますか?」、慶喜の新しい側近である原市之進が言った。慶喜は肯く。薩摩の運動の盛り上がりを彼が知らないはずはない。それは彼が、薩摩にこれ以上ないまでにイライラを高めさせるために、戦闘宣言を避けているもっと強い理由だからだ。彼は依然として薩摩を押さえつけ、その戦略は勝利を収めつつある。
「最後に殿は何をなさるのですか?」、と原。
「攻撃だ」
原は、慶喜の目論見が自身の考えと同じだと知って喜びを顔に表し、膝を叩いた。
いずれにしても、長州勢のこの攻撃は、慶喜にとっては長い炎暑による干ばつ後の恵みの雨だった。それまで彼はいつどこにいても、敵味方の別なく蚊帳の外に追いやられ、恐怖の孤立だった。しかしいまや世間は共通の敵長州に対して団結しており、少なくとも一時的ではあれ、この間はみんな慶喜の統率下にあった。廷臣たちも頼るべきは慶喜の軍隊だった。長州軍でさえ慶喜に何の変な恨みもなく、幕府派の薩摩と会津勢に対峙していただけなのだ。彼らの別の旗印は尊王攘夷。慶喜の目に、彼らの忠誠と天真爛漫ははっきり見えていた。
「見通しはどうですか?」、と原。
「それは容易い。一撃で彼らを蹴散らす」
異議申し立ては難しかったろう。宮中防御は京都駐在の25藩の部隊から成る連合隊で、その核は薩摩と会津。わが国随一の強力核だ。長州は勝利の見込みゼロの戦いを仕掛けたのだった。
「哀れ長州」、原市之進は慶喜との話を終えて仕事場に戻った後、黒川嘉兵衛と渋沢栄二郎に向かって嘆いた。原は慣習上薩摩人を〝(サツマ)イモ〟と呼んだ。彼らの里の名で知られる穀物だ。
「長州はイモたちの計略に引っかかっている。4度も降伏を警告されたのに、馬鹿な奴らはまだ今も拒んでいる。もし彼らが素直に兵力を撤退させれば、薩摩はがっかりし、全ての陰謀が雲散霧消するだろう。長州が聞き入れず敵意をあらわにすればするほど、唯一の勝利者はイモということになろう」
慶喜は連合隊を使って薩摩の兵力をさらに強化することに関心はなく、だからできる限り長く戦闘宣言を先延ばしした。しかし、8月20日、京都の三方を固めた長州勢が行動に出、その一団が朝5時過ぎに皇居に迫った。6時までに各門に押し入り、武力衝突となり戦闘に及んだ。
早朝4時半頃、慶喜は長州勢が皇居に向かって行動を開始したことを知った。およしが側にいた。付け人が杉の扉の外で敵の動きを告げたとき、慶喜は飛び起きて声を上げた。「来たか」。が、暗闇の中でおよしにこう語りかける心のゆとりがあった。「およし、いいかい?」
彼女は我を忘れて、江戸の消防士の娘たる独特の訛りで、「もちろんよ!」。慶喜は笑った。彼の声掛けの意味は、自身で死ぬ覚悟があるかで、武家としての心構えだった。
慶喜は別室へ行って宮中訪問用の公式衣装をまとい、そうすべく一連の命令をしたためた。その素早さと平静さに側近たちは感動し、こう思った。たとえ殿が激動の戦国時代に生きていたとしても、最高統治者になったろう、と。
門を出るや、慶喜は馬に鞭を当て、疾走した。このことにおいても、彼は他の封建藩主たちとは違っていた。彼は単独行で、従ったのは4,5人だけだった。外はまだ暗い。竹谷町で路地を走り抜ける2人の歩兵に出合った。彼らは白い鉢巻きに軽い鎧の出で立ちで、いつでも槍で戦える格好で走っていた。少し先でも同じ格好の2人の歩兵に出合う。馬に鞭を当てて通り過ぎながら、「会津の兵に違いない。風のように走っている」、と感心した。後で彼が知ったことだが、彼らは長州勢の最前線兵士たちだった。彼らは公式衣装の慶喜を見て、どうやら宮中貴族だと思い込んでしまったようだ。
慶喜は皇居に入って摂政に迎えられた後、竹の仕切りで隔てられた王位の座に進むことを許された。「すぐに兵を起こしなさい」、と天皇の声。声はかすれて聞こえづらい。その時までは、王位の座から伝えられる慶喜への伝言は、仲介者として仕える宮中幹部(まさにデタラメ屋)によって不正にゆがめられ飾り立てられたものだった。だから今回は慶喜にとって初めての経験だ。神聖なる天皇は仲介者なしで、自らの声で、軽率な言葉を発した。宮中がパニックに陥っている証拠だった。
慶喜が天皇との会見を終え、廊下伝いに出てくると、摂政が数人の廷臣を伴って後ろから小走りに近づいてきた。
「一橋殿、一橋殿!」と声掛けし、「戦闘の状況はどうなっていますか? 王座を降りられるべきでしょうか?」
天皇が安全な比叡山に移られる方がいいのでは、との意味合いだ。付き添いの2人はそれを意識してか長袖の公式衣装をまとい、非常に奇妙な格好だった。
慶喜は振り返った。「私、慶喜がここにいる限り、また天皇の側にいる限り、ご心配はいらないと思ってください」。彼の話しっぷりはいつものとおり理路整然としている。その姿を見て廷臣たちは、声の聞こえといい、流れと言い、その堂々たる態度に安堵した。
慶喜は裏門を出てから武装した。これが真の姿だ。かぶった皇族用の烏帽子は綾織りラベンダーでふちが飾られ、羽織は白い羊毛で、小さな黒い葵のご紋付きだ。腰の後ろ側にストンと差した刀は熊の毛皮の鞘に入った金ぴか。手には金の職丈。このように盛装して、稲光号にまたがって玄関を後にし、公家門から蛤御門まで走った。馬は銀色の神へのお供え旗を掲げている。その後ろに連なるは:
原市之進をはじめ10人のお供と50人の幕府砲兵隊、50人の砲兵隊、150人と100人の特殊部隊、そして最後部は100人の歩兵と200人の下級武士、それに12人の砲兵。
戦闘はこんな状態で6時過ぎに起こった。しばらく長州の優勢が続き、遂には両者砲撃態勢に入り、皇居内外で兵士たちは群れ集って格闘した。会津勢は度々総崩れとなり、福岡勢は自陣から撤退して皇居玄関を通り抜け、後ろの乗り物に疾走した。慶喜は彼らに向かって怒鳴り、敵と戦うよう追い戻した。最強は西郷隆盛率いる薩摩勢だった。彼らの行き届いた訓練の賜物と統率の取れた行動は、他のどんな部隊よりも隔絶の差があった。戦闘を通して彼らは格段の強さを誇り、最後は長州勢に完膚なき打撃を加え、全滅させた。
正午になって、市内での若干の掃討が残るだけで、戦闘は終わり、慶喜は皇居に戻って休息をとった。その間に原市之進は宮中でどんなことが語られているか聞き耳を立てると、殆んどが慶喜の輝かしい統率力と、薩摩勢の勇敢さだった。もしこうした囁きが市民の噂となって勢いを増すと、一橋慶喜と薩摩は同様の恩恵にあずかるだろう、と原は想像した。
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