慶喜の支持者たちは、阿部正弘の死後でさえ頑固一徹で、希望を捨て去るどころではなかった。彼らは興味半分ではなく愛国の熱意がこもっていたから、反対派は大っぴらに攻撃できなかった。幕閣の若くて能力を有する者たちが慶喜に揺るぎない支持を表明したことは言うに及ばず、大名の殆んども同様に彼に期待を込めていた。京都では、皇居の貴族や皇太子たちも慶喜の時代を待ち望んだ。それにしても、こんな全ての情熱家の中で、この男に接したのはほんの少しだけだった。ましてや話し合った者など。加えて、慶喜の若さは、これと言った実績があるでもなく、彼の能力を示すような何の実質的な書き物もないことを意味した。
噂が広がっただけだった。神童で秀才、勇気と機智の持ち主、と言った名指しは広く遠くまで伝播し、世間の想像を掻き立てた。社会一般の体制派は、彼を救国の任を帯びた英雄のように位置づけて理想像に持ち上げ、熱狂的支持を続けた。どの歴史を振り返ってもこんな形で国の救い主たらんの立場を得た人物はいるだろうか。慶喜自身は全く面食らった。
「常軌を逸している」と、自身に言い聞かせた。いつもながらの冷めた目で、何が起こっているかを見ていた。差し迫った海外からの侵略の恐れに直面して、国中が、自国の崩壊を予感して打ち震えていた。緊張、恐怖、そして不吉な予感に対する怒りに気おされて、国民は、救い主が到来し、難事を引き受け、安堵をもたらしてくれるよう願っていた。そんな英雄が現れるとの幻想に包まれて、彼らは慶喜をそのような人物と見做した。それはもってのほかで、あってはならないことだった。
「たとえ自分が野蛮人退治の最高司令官になったとしても、私は断じてやらない」と、彼は平岡円四郎に言った。
しかし彼の支持者たちはそんな事そっちのけで、遂には絶望をあらわにして、京都の皇居に彼らの主張を伝えた。そこで彼らは慶喜が将軍職を継ぐよう天皇の勅命を受けようとしていた。このような差し出がましい行いは、もちろんこれまでにはあり得なかった。
変化はまだ途上だった。幕閣への新入り井伊直弼は、強力な彦根藩の当主だが、まだ本格的には知られていなかった。彼の曖昧模糊は多分性格のなせる業だった。前彦根藩主の14番目の子息として、彼は30代に至るまで両親に甘やかされ、ほどほどの俸給で静かに暮らし、伝統的な詩歌や茶会やその他芸術に身を入れていた。彼はまた和文の学者で、優美な文章をこなした。直弼は他藩主のもとに婿養子を数回試みたが、話はいつも立ち消えになった。次に、彦根に近い長浜の寺の住職家に婿養子すべくその気になったが、これもうまくいかなかった。
直弼に幸運が訪れたのは二人の死による。まず彼の兄で前彦根藩主直亮の子息が倒れて亡くなり、その結果直弼を跡取りの任につかせた。その直亮も亡くなり、35才の直弼を35万石という膨大な禄高を有する井伊家の当主にしてしまった。彼が江戸幕府の閣内に入ろうとして将軍側近閣僚の松平忠固に純金40枚を贈呈したときは、閣僚たちは軽蔑の意を込めて彼を茶会や生け花に現を抜かすだらかんと決めつけた。そんな人物井伊直弼が1858年4月23日、劇的に権力の座に躍り上がった。〝大老〟で、事実上日本の統治者としてふるまえる絶対的な権力の座だ。
その座に就く前後に、井伊直弼は紀伊家と深くかかわった。紀伊家の幹部や江戸城内の者と行動を共にして、12歳の徳川慶福(後の家茂)を次の将軍にしようと画策した。慶福は和歌山の徳川家紀伊藩の出だ。直弼は、水戸藩、とくに慶喜の父斉昭を猛烈に嫌っていた。彼は断固たる伝統主義者だった。彼の思いでは、賢明な盟主を選ぶ必要などなかった。これまで大したことのない将軍が続いているが、それでも徳川幕府は3世紀近く安泰で来た。これはすごいことだ。諸大名や将軍の家臣たちが徳川家の血統を畏敬の念で支えてきたからだ。11代将軍家斉の孫にあたる慶福は徳川の血統としては一橋慶喜よりも濃かった。この事実だけで二人のどちらが将軍にふさわしいかが決まった。もし血統につながりの薄い者が後継になったなら、徳川家は神々しさを失ってしまうだろう。一方で、大勢が慶喜を担ぎ上げていたが、それは彼が叡智の人物だったからだ。人々がそのような指導者が現れることを声を大にして叫び、とどのつまりは君主に選ぶようなことになれば、これほど将軍家をないがしろにすることはなかろう。下級の者たちにとっては、自分たちが君主を選ぶとすれば、それは国を不安に陥れるようなものだった。
この保守的な推論に沿って、直弼は慶福の強い支持者だったが、その考えを伏せて、慶福の大義を裏で推進した。松平春嶽は自分の立ち位置が分からぬまま新大老に会い、慶喜への支持を取り付けようとした。二人の会談は結論が出ぬまま終わり、直弼に対して春嶽は、横柄で高圧的な男で、国家をしょって立つ理想をこれっぽっちも持ち合わせぬ下品な奴、との印象を残した。
大老井伊直弼は時折側近を遠ざけて、将軍家定と二人だけになり、肝心の後継に関する彼の意見を伝えようとした。「みんないないからご安心あれ。紀伊公と一橋公のうち、どちらがお好きですか?」。彼はまるで幼児に話しかけるように辛抱強く尋ねた(のだろう)。その都度、家定はこう答えた(のだろう)。「紀伊公だよ。一橋は嫌いだ」。直弼は将軍が言ったことを6月18日と23日の二度にわたって強く語った。当然ながら、だれもその現場を見たわけではなかったが。
直弼は将軍が明示した二人に対する好悪をもらした。同時に慶喜を是とする全ての配下の降格に取り掛かった。その多くは幕府で最優秀に値する者たちだった。力のバランスが崩れていった。
その間、貿易協定締結交渉が米国領事タウンゼント・ハリスとの間で進んでいた。これは将軍後継問題と同時進行の重大問題だった。即時海軍をあげての攻撃というハリスの強烈な脅しによって予想通りの結果になった。歯の立たない敵の侵略を逃れるためには即刻の行動が必要であり、貿易協定は1858年7月29日に天皇の勅許を仰ぐことなく締結された。ペリー来航5年後のことで、井伊が大老職についてわずか数週間しか経っていなかった。
翌日、井伊は江戸城での報告をやめて、病気を口実に自宅にこもり、民衆がどう受け止めているかを神経質に見守った。予想外に反対意見が大勢を占めていることを確かめるとすぐ、彼は登城し、協定締結の詳細に尽力した二人の閣僚を免職処分した。一人は松平忠固で、井伊を大老に推薦した人物だった。井伊が忌むべき行動の責任を側近に擦り付けたとする印象を免れることは容易でなかった。
「とんでもないことだ」、21才の慶喜は叫んだ。ようやく彼は政治の成り行きに初めて直接的な姿勢を示した。彼の叫びの裏には水戸理論があった。日本の真の統治者は天皇であり、国を治める幕府の力は天皇から授かっている、と。家康は、徳川幕府を打ち立てたとき、そんな考えはもちろん全然心になかったが、この考え方はその頃から芽生え、水戸藩らで育まれた。そして欧米の脅威に対抗する過激派の間で忠誠の合言葉になっていた。
「井伊大老は天皇のご意思に逆らったこの結果に目を背けてはならない」、慶喜はそう宣言した。幕府の大老である井伊自身が国の在り方を誤った。もしそんなことが何の非難も受けずに済まされるものなら、国民はどんな過ちも許されると思い込もう。
「城に行こうと思う。井伊殿にそう伝えてほしい」、と彼は平岡円四郎に申し渡した。平岡は幕府要人たちにもそれを知らせ、全ての準備を怠らなかった。慶喜が登城を予定した日の8月2日は協定が調印されて5日目だった。
一橋慶喜が大老を公然と非難しようとしているという噂がすぐ、幕府の内外を問わずそこら中に広がった。このことは極めて物見高く伝わった。井伊自身〝肝をつぶした〟ようだった。どの将軍家も政治に関わりはなく、公然たる意見も権力も有していなかった。慶喜が堂々と登城して謁見するとは、これは一体何なのだ?、と井伊は狼狽した。
約束の日に、慶喜は登城した。控えの間で茶のもてなしを受けた後、〝坊主〟が来て、廊下伝いに奥の間へ案内した。部屋では井伊直弼が恭しくひざまずいていた。頭を畳に擦り付けて、しばらくの間その姿勢を保った。それが終わってすぐ、若者は言った。「慶喜です」。そこで直弼は再びひれ伏して、後ろへいざり、内心こう思った。「いやはや、頑固な若輩よ」。
慶喜はと言えば、がっしりした顔には不釣り合いな細めで斜視の太った井伊の容貌を目にし、重鎮の大名というよりもどこか田舎の漁師の頭のようだと思った。
何世代にもわたって井伊家は将軍分家で最高位だった。関ヶ原及び大坂の壮絶な合戦以来、井伊家は戦場での特別な護衛の栄誉を与えられ、井伊家または酒井家の者のみが大老になる資格を得た。井伊直弼は突然井伊家のトップになり、富裕な大名として思いがけない優雅な生活に入った。それは彼にとって新鮮で刺激的で、魅惑に満ち威力があった。未熟ながらも野心と意欲に掻き立てられた。疑いもなく、井伊家の当主として、徳川家を守るのは自身を置いてほかにないとの馬鹿げた考え方に酔っている。だから彼は水戸が嫌いなのだ、と慶喜は思った。
直弼に関する限り、水戸の過激な皇室寄りの偏見は、まさに裏切りに値した。事実慶喜を見て、直弼は彼の後ろ盾に水戸の力のみを感じた。見てくれの良い若者に見えて、だからこいつは水戸の慶喜ではないか、そう思った。噂どおり頭は良さそうだが、様子は全く貴族的。そしてまだ少年だ。この面会で、深刻な事態がもたらされることはあり得ない。
井伊直弼の頭をこんなことがよぎっている一方で、慶喜が話し始めた。相手が驚く中、初めの言葉は敬意の外交辞令だった。「最近貴殿は将軍最側近の大老になられました。昨今の難しい時期に、貴殿の行き届いた献身を非常にありがたく思っています」。言葉は通り一遍だが、声は朗らかで、さも舞台で心地よく主役を演じているような気軽さと威厳があった。
作法上、井伊はこの賛辞に痛く感激したかのように、ひれ伏さざるを得ない。
慶喜は続けて、「世代を超えて井伊家は徳川家との特別な関係を保ってきました。そして今、尊いご先祖様と同様の誠意ある貴殿のご奉仕を見るにつけ、私ども一同は元気づけられています」。
直弼はほっとした。次のように答えながら、慶喜に向けた笑顔は驚くほど単純な性格を示すものだ。「いま私に全く思いがけず降りかかっている重責にふさわしくはありませぬが、この責任を果たす努力は自信があります」。彼は内心この若者の挨拶の高貴さと政治的早熟度に驚いていた。
慶喜はここで本題に入った。彼の声は今度は秋の霜のような冷たさを帯びる。彼の叱責は固く論理的で、間髪入れずに発するから、相手に息を継ぐ暇を与えない。彼が直弼をとがめたのは、天皇のご意思に逆らったとんでもない犯罪とその悪事をわかっていながら前に進めるという恥知らずの失策で、そのため協定調印の事実は、京の都では親書伝達の些細な儀式として報告された。井伊公は一体何を考えていたのか? 「服従だったのか?」、慶喜は声を荒げた。「私はそう思っていない。間違ってますか?」
しばらくこの状態が続いた。慶喜の言い分は上っ面でもなく抽象的でもなく、一連の具体的で特定の事実を並べ、その一つ一つで直弼の返答を求めた。
この全てに対する直弼の応答は、大柄な体を折り曲げ、こう繰り返すだけだった。「ちょっとお待ちなされ。申し訳ないが、ちょっとお待ちなされ」。彼はどの返答にもこれ以上のことは言わず、怒りの表情とは裏腹に声は妙に穏やかで、子猫の鳴き声のようだった。学者然とした見栄えに似合わず、直弼は論理的厳密さの持ち合わせはなく、論旨を首尾一貫して展開したり維持したりはできなかった。見たところ、少なくともある意味、この場において口を閉ざし続ける言い訳にはなった。
それにしても慶喜の熱烈な論調に比べて、井伊直弼の態度は、とくに感情を抑え政治家然としていた。曖昧であることがこの際必須だったのだ。慶喜の後ろには水戸家と過激派大名がいる。だからどんな些細なことでも、後で起こりうる苦境を鑑みれば、まさに物言えば唇寒しだった。これとは別に、慶喜のような若造で経験の浅いものを論破して何の御利益があるか?
直弼の穏やかな顔を見て、次第に慶喜の口はつぐんだ。相手の穏やかな声はまた、こちらの気をそぎ、遂に慶喜は話題を変えた。
「将軍の後継についてだが……」、自身の声を聴きながら、慶喜は場に適さないことを言ってしまったと内心出過ぎたと思った。それでも、途中でうまくそらすことはできなかった。生来授かっている雄弁を奮い立たせ、彼は控えめながら響きのいい声で続けた。「教えてほしいのは、将軍がどう決意されたかです」。
会見の模様はこの段で、「大老は突然顔を赤くして」、とある。人もあろうに慶喜にこのような質問をされて、彼は明らかに動揺を隠せない。それでも彼は頭を低くしたままで、またしても「すみません」と言った。
慶喜は苦笑いして、「どうした、とちまぎしなくていいよ。私は絶対の確信を持って尋ねたのだから」と、強く出た。が、直弼の答えは依然として同じ繰り返しだった。「まだ何の決心もされてないのか?」、わざと無頓着に問いただした。が何度も彼の答えは頭を低くするのみだった。慶喜はここで打ち切った。
最後に彼は勇気を振り絞ってこう言った。「噂によれば、将軍は紀伊公を跡継ぎに決めたようだが、本当か?」
この場で、直弼はやや目を上向けにして慶喜の表情を読み、遂にうなずいてそれを認めた。
慶喜にとって微妙な瞬間だが、彼は生来どんなときにもそれに応じた態勢をとる能力を備えていた。すぐに顔を輝かせ、「素晴らしいですね。本当に喜ばしい」と、声は安堵を込めて真に迫る喜びを伝えた。これまでこの話の各種噂は広がり、そのいくつかは明らかに彼自身を巻き込んでいたから、非常に悩んでいたが、結局落ち着くところに落ち着いたのだなと胸をなでおろす仕草はしなかった。素晴らしい。ところで、その若い紀州公はてんかんを病んでいると聞いていたが、先日城で偶然お目にかかったとき、全然そんなご様子ではなく、正直年齢の割りにがっしりしていてびっくりした。これもまた素晴らしいことだ。12才かそこいらの少年がこの地位をこなすには幼すぎるという人もいるが、大老井伊直弼殿が付き添うことになるのだから、全てめでたしめでたしだ。
「そして」と、慶喜は話をこう締めくくった。「ご理解いただきたいのですが、私も、いかようにもまたいつまでも、彼にお仕えします」。この国で新将軍の最も忠義な臣下になるとの意思を込めた。
礼儀正しい言葉のそろい踏みに聞き入り、一瞬直弼は感激したが、すぐわが身に返って、笑顔満面で来訪者と愛想よく語り合った。その取り止めもない話し合いの中で、そうなれば当然空席になる紀伊家の当主にだれがなるのかと、慶喜はふといぶかった。
明らかにまだその後継について井伊の思いは及んでいなかった。彼はどもり、一方に首を傾け、その間ずっと慶喜を見上げながら、老いた猫のような物分かりのよさそうな様子でニヤッとした。慶喜は内心身震いした。以来老いるまで、彼は、あのにやり顔、半分なだめすかすような、また半分へつらうような、その顔を決して忘れなかった。
「殿にそのご意思はござらぬか?」、と井伊は尋ねた。言葉を変えると、慶喜が紀伊家の大名になりたいかどうか。自身、母が下級の生まれだったため、これまでずっと他の何かを頼りにせざるを得なかったから、井伊は疑いもなくこの投げかけを無上のものと思った。慶喜が興味を持ち、喜んでやってみようと考えるだろうと思って、彼は極めて人懐っこくひたすら相手の膝を叩きながら、遠回しに話した。
これは慶喜にとって余分なことだった。一瞬口を閉ざしたが、すぐに硬く断った。言葉を選びながら、「私は一橋家を離れたくない」と、言い切った。「だから私は徳川家の跡取りにはなりたくないと話したのであって、紀伊家は言うに及ばない」。
04.安政の大獄(1) 朗読 31' 14"
04. 安政の大獄 (2)
慶喜は城を出た。邸宅ではいつもの無口に戻ったが、平岡円四郎が大老に対する印象についてしつこく尋ねるので、彼は遂に穏やかな表情で正直にこう答えた。「断は下せる人物だが、知恵が足りない」。これが彼の率直な受け止めで、井伊直弼は明け透けにじゃれてきたが、慶喜はすでにこう聞いていた。幕府内で幹部より地位の低い者には誰にでも横柄さを隠さず話すということを。上役におべっかを使い下役には高慢にふるまうものは誰でも人柄と力量において自信に欠ける、と。彼は何年も前に師範の井上勘三郎から学んでいた。
「大した人物ではないと思う」、そう結論づけた。
ではあっても、人物評価はその者の考え方や知能ではなくその者の権力・地位に基づかねばならないということが、すぐに慶喜に痛手となってもたらされた。井伊直弼との会談があってまもなくだ。大老は後に安政の大獄として知られるようになった悪名高き大事を仕出かす。史上空前の容赦ないあこぎで冷血な政治的弾圧だ。
いや、政治的弾圧ではない。政治と直接つながってはいない。直弼の行動は極めて単純だった:悪意そのもの。彼の見解では、徳川斉昭は何年にもわたってあの手この手で将軍家の転覆を図ってきた。これが彼の持論であり、何の証拠もなく抽象的で不明瞭な理屈だ。それを具体化し鮮明にしたのが直弼配下の長野主膳だった。
主膳は確からしい憶測に基づき、一貫してスパイ行為の任にあった。そして彼が証拠報告をしたとき、それらの証拠を様々な憶測で飾り立てていた。それはこんな順序だ。①斉昭は幕府を自らの手中に収めるために子息を将軍にしようと画策してきた。②その画策を実現するために、彼は松平春嶽を登用した。春嶽はその功労により最上級幹部の地位をすでに約束されていた。③斉昭は子息を次の将軍とすべく、京都の皇居の力を利用しようとし、とくに天皇の最側近相談相手である皇太子の青蓮院に、次の天皇たることを強く支持すると約束している、等々……。そんなことで、水戸斉昭は国の強奪を企んでいる、これが主膳の主張だった。
井伊は長野主膳を派遣して証拠の裏付けを急がせた。彼のやり方は、まず天皇に忠誠を誓う浪人や京都で主君のない武士を逮捕し、拷問にかけ、自白を強いることだった。初めに若狭の浪人学者である梅田雲浜を捕らえたが、罪に陥れるべき証拠を見いだせなかった。それから、他の容疑者を次々と逮捕し、その名簿が皇居の貴族や大名の家臣・側近に及んだ。遂には、取り調べと有罪の広がりはもっと高い地位にまで至り、貴族や大名自身もその範疇に入り、国中の全ての愛国活動家を巻き込んだ。
慶喜でさえ免れようがなかった。京都で梅田雲浜が捕らえられる2ヶ月前に、慶喜は城外へ締め出された。井伊直弼が江戸城内で飼い猫のように、いかにも遠回しで彼に話してから2週間近くしか経っていない。締め出しの公文書には「将軍のご意思により」の語句が含まれていた。言葉を換えれば、それは将軍の直接命令だった。さはあれ、将軍家定は病床にあって死を目前にしており、内密の知らせによれば、8月13日現在、息を引き取りそうだとのこと。それは慶喜締め出し文書が届く前日だった。しかし、将軍の死は公表されず、直弼は厳重にかん口令を強いていた。もしそれが漏れようものなら、斉昭は時得たりと、内情を知る同志たちと内乱を起こしかねない。大老の判断は間違っており、斉昭はすでに討幕の首謀であり、春嶽やこれを支持する皇太子青蓮院の仲間たちは、狂言で言えば、ずる賢いおどけ者だった。直弼の文書にある皇太子の暗号は「役者」だった。
慶喜は井伊直弼が事を起こしかけていると判じた。将軍がまだ生きているという幻想を掻き立ててその死を隠し、このような命令をする理由が他にあるか?
命令は慶喜を城から締め出すだけにとどまらなかった。一橋邸でも表玄関、裏玄関、台所口、全ての使用を明白に禁じた。出入りが許されたのは妻の館の門のみだった。
「こんな状態でこれからどうなるのか?」、平岡円四郎はつぶやき、出入りの商人に水戸邸がどうなってるか調べてほしいと内緒で頼んだ。間違いなく、斉昭と春嶽も告発され、罰則を受けていた。斉昭は自邸謹慎となり、藩での権力ははく奪され、一切の交流を禁じられた。春嶽は強制引退の身となった。
日増しに犠牲者は膨らんだ。安政の大獄は井伊が大老になって間もなくの1858年6月20日、愛国浪人の逮捕で始まり、1860年初めまで1年半も続いた。春嶽の右腕橋本左内は死罪に処せられた。西郷隆盛は、反徳川騒動での薩摩の首領で、同郷の島津斉彬による様々な任務で京都と江戸をお忍びで行き来していたが、いまは仲間たちと故郷へ逃げている。斉昭の使者鵜飼幸吉は斬首され、頭部は牢屋の門に晒された。大獄は長州の吉田松陰のような者にまで及んだ。彼は、幕府が皇居をないがしろにし、国民に横柄で、明らかに外国寄りであることに、断固反対の塾を率いていた。慶喜を将軍に推す集会には臆せず参加していた。彼は幕府の密偵に取り調べられ、駕籠で江戸に引き渡され、1859年に打ち首になった。どこもここも無数の者が処刑されたり追放された。
浪人や僧侶や大名の家臣のほかに、貴族10人、大名10人、旗本14人が捕らえられた。最も厳しく扱われたのは、驚くなかれ、水戸斉昭だった。当初は江戸の館での謹慎だったが、水戸での生涯謹慎に変えられた。慶喜に跡取りを強く進めていた尾張藩主の徳川義怒もまた自邸謹慎となった。越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城も同様だ。改革派大名の島津斉彬だけが刑罰を免れたのは、薩摩の自邸で病に倒れ、まさにその時亡くなったからだった。
慶喜の罪はその後城外への追放から自宅謹慎に格上げされた。そうと聞いて、彼は「何ということだ!」と叫び、黙ってしまった。なすすべはなかった。井伊は幕府内にいてスパイ行為に身をやつし、配下は江戸・京都のそこら中にいた。「壁に耳あり」が全ての説教僧の口に上った。慶喜がほんのわずかでも不平を漏らそうものなら、間違いなく井伊直弼に伝わって、「それ見たことか。こいつが悪なのだ!」と名指しし、死に追いやられたことだろう。
謹慎は邸内のもの全てに対してだった。門は全て閉ざされた。慶喜自身は自分の館に閉じ込められ、わずか明かりを受けるべく窓を5~10センチ開けることを除いて、扉は固く閉ざされた。月代を剃ることさえ許されなかった。髪は伸び放題でよい、が幕府の命令だった。そのため時を経ず伸び放題の髪で、だらしない浪人の姿になった。
いつもなら臣下たちは毎朝控えの間か廊下にやって来て様子をうかがうのだが、それも固く禁じられた。彼らや外との全ての接触は遮断された。たとえ地震があっても、江戸城が大丈夫かどうか確かめるために使いをやることもダメになった。
慶喜は毎日ずっと閉ざされた部屋にいて、公式の裃で装い、読書に浸った。話し相手は一切なかった。右腕の平岡円四郎さえ遠ざけられ、どんなことであれ接触禁止とされた。慶喜は平岡と話せないことを悔しがった。彼にとって平岡は二人とない友だったのだ。折に触れてちょっとしたことや融通の利かないことで平岡をからかったが、真実、慶喜の成功を支えて努力を重ねる国中の者たちとの交流を通して、平岡円四郎はすでに頼りがいのあるものになっていた。
春嶽の最側近で当時最高の知恵者として知られた橋本左内は、平岡が特別に親しい関係を得た一人だ。越前の賢者中根雪江は、二人の雑談を聴いてこう話した。「平岡円四郎はまたとない即妙と弁舌の持ち主で、口やかましさでも右に出るものはない。橋本左内は知恵も視野も格別で、物分かりも極めて鮮明だ。彼らの横に座って、私は一方に夢中になり、他方に冷静になった」。
平岡は初めから弁舌さわやかとは言えなかった。この様変わりは、疑いもなく慶喜の影響による。普段は無口の慶喜だが、素晴らしい雄弁を持ち合わせていた。流暢で説得力のある雄弁を生まれながらにして持つ若い当主に常日頃接して、平岡は明らかに自身の弁舌を磨くことができ、〝またとない即妙と弁舌の持ち主〟との評判を得るまでになった。
彼の運命はそれから悲惨だった。表面上罰則が解かれた形で、彼は山梨の甲斐城への異動を言い渡された。将軍に仕える旗本にとって、このような異動は左遷であり、この幕府体制では再び江戸に戻れることなどありえない。「かわいそうに、平岡はもう終わりか」、慶喜はそう思って悲しんだ。彼は、自身が幽閉から解かれることになったように、平岡もそうなり、当時の最高賢者の一人との評判を得るだろうとは思いようがなかった。
将軍幕閣で唯一慶喜の擁護者である松平憲武は書状を送り、こう言った。「人の運命は只今の状況で語られるものではありません」。勿論慶喜はこれを単なる外交辞令として受け取った。
来る日も来る日も、彼は読書三昧だった。主として読んだのは、司馬光の「資治通鑑」と司馬遷の「史記」といった中国の歴史物で、国家の浮き沈みの法則を学ぼうと努めた。生涯で自邸謹慎中のときほど読書に耽ったことはない。後世において、ここで得た読書癖は井伊直弼のおかげだと悟ることになる。
時は過ぎて、慶喜が城外追放となってから18ヶ月後の1860年、年号が安政から万延に変わった。その頃、彼は、水戸家に関する何らかの噂を耳にした。が、当然この状態では、どういうことなのか詳細不明だった。彼の毎日は変わらぬまま過ぎた。罪に伏しているとはいえあまりにも長すぎる。彼は落胆し、ぼやっとしたまま時だけが過ぎた。
「どんな男なのだ、俺は」、一笑にも値せず惨めな人生の区切りを自己憐憫することから離れることもできず、彼は惨めになった。一体、どんな罪を犯したのだ? 彼はこれまで何の公式な行いもなしたことはない。にもかかわらず、彼の今は罪人として扱われ、自宅蟄居の身だ。罪は昔の噂にあった。〝頭脳明晰〟。
「それはオレ自身が起こすような噂ではない」、と彼はうなだれた。生まれて以来思い起こせる限りそれを考えると、彼の父の斉昭はだれ彼なしに彼を褒めちぎった。ある日、子息が幕府のお達しで国のてっ辺になるだろうと父が言ったとき、みんな聴き入って信じた。その話が国中をめぐり、彼が罪に陥れられることで終息した。「馬鹿げている」、彼はつぶやいた。
慶喜は中国や日本の歴史で、彼と似たような運命の父子を探したが、見つからなかった。ということは、間違いなく特殊な立場に追いやられており、これからどんな災いが待ち受けているか神のみぞ知るだった。
3月が来た。春の宴の月で、江戸の全ての大名が将軍の面前で祝うため、城に集まった。いつもなら、最高位の慶喜は全員の先頭に立って将軍ご自身の前に現れるはずだ。現将軍は第14代家茂で、紀州家の少年はこう改名していた。しかし2年目の今回、慶喜は外された。
「雪らしい」、慶喜は朝寝床でつぶやいた。いつもに似合わず、寝過ごしていた。妻の美賀子はすでに起きていて、ふすま越しに絹のサラサラっという音を立てていた。前年の夏、彼女は女児を生んだ。その時のことを慶喜は悲しみにくれずに思い出すことはできなかろう。世の中から遠ざけられ、女児誕生を祝ったり公けにしたりすることはかなわなかった。赤ん坊は4日間生きて、5日目に亡くなった。
「春の雪が舞っている」、閉ざされた向こうでかすかな音に耳を傾け、彼は繰り返した。声を意識的に大きくして、ふすま越しに身支度している妻に聞こえるようにした。京の雅びにいた彼女がそれを知れば、きっと江戸に来て初めての春の雪と思いを新たにするだろう。彼はよく承知していたのだ。
二度目つぶやくと、彼女はふすまの向こうで小さく咳をした。それは、〝聞こえたわよ〟という合図だった。身支度終えて座るまで、彼女は言葉にして伝えたくないのだろう。
慶喜は寝床を離れた。厠に向かって廊下に出ると、目の届く限り雪が降っていた。軒の向こうは一面真っ白で、雪はまだどんどん降っており、雪片のシュッという音が聞こえる。3月終わりにこのような大雪は江戸ではこれまでになかった。
その時、城のやぐらから太鼓の音が一度聞こえた。続いて大太鼓の音色が5回。それは午前8時を指し、大名の登城時刻だ。まさにその時、桜田門外で大変な事件が起きていて、それが慶喜のその後を徹底的に変えてしまうことなど、知りようがない。全てが終わった7時間後の3時に、彼はようやくそのことを知った。一人の水戸の天皇派が魚売りに変装して裏通りからこっそりやって来て、内々に彼の以前の師匠である井上勘三郎を呼び出し、事実を手短に伝えた。
井伊直弼が死んだ。
慶喜は翌日に詳細を聞いた。井伊は登城の通り道で待ち伏せされていた。待ち伏せ連中は水戸の天皇派17人と薩摩から1人だった。井伊はまず駕籠の外から突き刺され、雪の中へ引き出され、何度も繰り返し突き刺された。その全ての刺し傷は体を突き抜けており、その都度ゴムまりを叩くような柔らかい音がした。一橋家のものによれば、その模様を小窓から見ていた近所のある者がそのように伝えた、とのことだった。
「ゴムまりを叩くようにか」、と慶喜は反復した。彼はそれらしきものを部屋に持って来て、扇で数回空中に叩き上げ、その都度柔らかい衝撃の音色に聴き入っていた。
04.安政の大獄(2) 朗読: 26' 02"
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