最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

03. 好機を逸する (1)

 慶喜は国の事実上の君主たる将軍家定に何度も拝謁していた。「どんな人物ですか?」と、側近主席の平岡円四郎は知りたがったが、慶喜は一言、「私は将軍のことを話す立場ではない」、と答えるだけだった。生来慶喜は能弁で流ちょうな話し手だが、多分水戸流養育の結果、ますます無口になっていた。

 事実慶喜は、かつてある仰天に値する行動を見せつけられていた。家定が将軍になる前に、慶喜は、伝統的に跡継ぎの公けの住まいとなっている江戸城西の館に彼を訪ねた。「誰だ?」、家定はぐいと顔を上げて叫んだ。彼の顔は青ざめて引きつり、目はぎょろっと揺らめいていた。ちょうど真ん前には金が散りばめられた陶製の木炭火鉢があり、中の炭の上にはエンドウ豆を炒る陶製の平鍋が乗せられていた。家定は、この世で一番の楽しみである、竹箸を使って豆を炒ることに夢中になっていたのだ。

 「あれ? 一橋、お前か!」、彼はそう叫び、豆をいくつか取って慶喜の手の平に置いた。ちょうどその時、一羽の(たか)が前の庭に舞い降りた。家定は金切声を挙げてベランダから飛び降り、鷹を追いかけた。これが立派に成人し、二度も妻を亡くした男とは信じがたかった。彼の最初の妻は摂政鷹司輔熈(すけひろ)の娘、二度目は元摂政一条の娘で、どちらも結婚後間もなく亡くなっていた。

 家定が13代将軍になって以来、慶喜が彼に拝謁する都度、二人は庭で会っていた。彼は今そこにいて、池の端っこでぎこちなくよたよたした足取りで歩を進めている。オランダ人から献呈された拳銃を手にして。家定は銃器が大好きで、それを構えながらよたよたと追い掛け回し、顔を灰色にこわばらせて命からがら逃げる者たちをあざ笑っていた。

 この騒動のさ中に慶喜は池の側まで走り、片膝立ちで待った。間もなく家定が駆け寄ってきたが、慶喜とみて青ざめた。すぐに銃を横に投げ捨てて、怪物を目の前にしたかのようにおびえた。泣き出しそうにしながら、彼は気が狂ったように、乳母を呼んだ。「おしげ、怖いよう。一橋がいる!」

 慶喜はあっけにとられた。これまで彼は家定と会うどんな場合にも、常に家族一同の頼りがいのある者として迎えられていた。一度だに彼がこんなやり方をされたことはなかった。将軍側近も同様にうろたえ、あわてて慶喜にこの場を離れてほしいと願い、もちろん彼は逆らわなかった。が、その後で彼は悔いた。「怪物だって?」、彼は自問自答した。誰かが無邪気な家定に教え込んだに違いない。城内の女たち以外に考えられなかった。

 新将軍ということは当然、将軍に仕えるすべての女性で占める大奥の力関係の変わり目を示した。家定の下では、大奥の主は、実母おみつだった。彼女は旗本跡部ゆざ衛門の娘で、前の将軍家慶が跡取りの立場だったときの配偶者だった。彼女の運命は異常に過ぎていた。11代将軍家斉は40人の側女から55人の子供を設け、城には数百人の他の女性を囲っていたが、その家斉の指図による多産の域に達していない間に、その子息の家慶は生涯で50~60人の女性と関係を持ち、20人を妊娠させた。しかし事実として、生まれた子供は全て乳幼児期に亡くなった。子息で唯一の生き残りはおみつが産んだ知能に劣る少年だった。

 家慶の死で家定が跡を継いでから、おみつは仏教の修道生活に入り、本寿院として知られるようになったが、権力は維持し続けた。ずっと以前の時代に同じようなことがあった。北条政子は、彼女の夫である鎌倉幕府の創始者源頼朝が1199年に亡くなり、その後を受け、生涯にわたって幕府トップとしての任務と独裁に徹したことにより尼将軍と呼ばれた。家定の場合、彼が大っぴらに接したのは母と乳母だけ。ということは、将軍の意思唯一の伝達者はおみつということだった。

 水戸斉昭が慶喜の裏で徳川幕府転覆と自らの幕府の樹立を企んでいると確信し、おみつはすぐさま水戸家に敵意を持った。彼女は間違ってなかった。まさにこの筋書きが進んでいるように見えた。慶喜がひとたび将軍になれば、斉昭は大御所になろう。摂政として江戸城に入り、幕府幹部を洗い直し、外国勢力には英雄然と立ちはだかるだろう。おみつは外国勢力とのせめぎあいで何が起こっているのかを気にしなかったが、斉昭が大奥に大なたを振るうだろうことは信じて疑わなかった。そうなれば、彼女の権威は地に落ちよう。

 「水戸の大老は大怪物だ」と、彼女は朝に夕に子息の将軍に吹き込んだ。「息子もよ、あの一橋公。何故って、もしあなたが彼を後継に選べば、あなたがどうなるか火を見るより明らかよ」。人形に命を吹き込むまじない師のように、彼女は息子の耳にささやき続けた。慶喜はその一部始終をさもありなんとひらめいていた。

 そう、そのとおり。彼らは慶喜に反対で、彼は城への中心門からも跡継ぎの邸宅への門からも追放されて終わることになろう。彼は悩んだ。生まれついての個性で一つだけ欠けていたのは〝野望〟。一瞬たりとも彼は将軍の守り役やまして次の将軍になろうなどと思いもしないことだった。

 「なんと馬鹿なことか!」。夜な夜な床の中でそっと自分に呟いた。彼は、須賀という側室と床を共にしていた。「馬鹿な! 馬鹿な!」。毎晩慶喜は須賀に馬乗りになりながら、その言葉を繰り返し、彼女をすくませた。須賀には、自分の男っぽいところが嫌がられているように思えた。

 生涯を通して、慶喜は大食漢だった。立派な体格で、早熟。その年、16歳で最初の側室をあてがわれた。彼の欲求ではなく、側近の要請だ。選ばれた若き女性がこの須賀で、水戸藩家臣一色の娘だった。(記録では、須賀は、慶喜が結婚してからも、ずっと寄り添った。)

 須賀が最初彼と寝床を共にしたとき、慶喜は女性の体に極めて興味を持ち、ずっと以前に網投げで示したと同じ強い思いで調べまくった。彼女が裸で横たわると、彼は提灯を極端に近づけ、「この体は男と完全に違う!」。彼は幼少のころ技を磨こうとして習得したと同じ集中力で、須賀をまじまじと眺めた。恍惚状態の中でも彼の探求心は終わるどころではなかった。平岡円四郎を呼んで、「須賀の体はこんな感じ」と言い、一枚の用紙にユリに似せてスケッチを描き出した。平岡は当惑したが、慶喜はスケッチに夢中で表情も真面目そのもの、丁寧に画用紙に頭を擦り付けるほどだった。

 慶喜の、もっともっと知りたい気持ちはさらに前に進んだ。絵にしようとして、スケッチの輪郭に色を付けはじめた。傷のあるところではうまく影をつけて。顔料それぞれの特性を生かしたあと、首をかしげながら、実物と全く同じ色合いになるまでやり直し続けた。

 そして遂にこう言った。「これが須賀だ。全部同じだろ?」。平岡は、まだ奥方の恥部をじっと見つめたことはなかったから、返事できるはずがない。「わかりません」と、謙遜しながら打ち明けた。すると慶喜は初めて笑った。「だからお前はぶきっちょなのだ」。

 慶喜が度外れて謙虚さを欠いていたにせよ、そんな性格が彼の回りでごく普通だったにせよ、平岡は訳が分からなかった。いずれにしても、彼がこのように言葉を失ったのは生涯で他になかった。

 須賀を抱きしめながら、慶喜は「馬鹿げたことよ」と、何度も何度もつぶやくから、彼女は我慢ならず、「殿、それ私のこと?」と、いらいらしながらはっきりと尋ねた。不意を突かれて、慶喜はやっと自分が声を出していることに気づいた。まだ彼は須賀には、将軍家定とその母の寵愛を失っているという不幸感を打ち明ける気にはなれなかった。

 事実、彼はそんなことを口走っていたのだ。ちょっとした言葉で。「女は怖い」と言った。彼女は愛撫されながら、それに甘んじている。もしこの女が身ごもったら? もし自身が将軍になり、その子が跡取りになるとしたら、須賀はおみつ、いや、本寿院と同じように国のいろいろなことに口出しし、権力を振るうことになろうか? それが彼の心にあった。「お前、そんな馬鹿なこと」。

 「何のこと? 私たちのことですか?」。2才年上だが、須賀は慶喜の目まぐるしい気持ちの揺らぎについていくことができなかった。彼はいまは、日本の危機の真っただ中で、手綱が馬鹿で能なしのこの母子二人の手にある滑稽この上ない状況に思いをはせていた。外国の侵攻が差し迫っており、お国の一大事、なのに誰も何もできない。

 「巻き込まれないように」、と彼は思った。幕府の内外を問わず愛国者の願いは彼が家定の跡取りになって将軍の代理ができるようになり、国の諸事を預かることだった。しかし、慶喜自身はいささかも望まなかった。常に大人びていたから、このことにおいても彼はあくまでも身を潜めるという老練の天性を持っていた。

 それでもこの状況下で、どんな犠牲を払ってでも、一橋慶喜を将来の跡取りにするのが唯一の道と信じる男がいた。それ以外に国を救う手だてはない。失敗すれば日本は奈落の底に落ちる。彼は全ての手練手管で信念にまい進した。慶喜は、多少は彼のことを承知していたが、勿論、よくは思っていなかった。彼の名は松平慶永(よしなが)、一般には越前守でとおっていた。後に1858年の安政の大獄で自宅逮捕となり、それから名を春嶽と改めた。その名で彼は歴史上の人物となる。

 この松平春嶽は福井(越前藩)の大名で、禄高32万石だった。徳川幕府御三卿の田安家に生まれ、17才で強力大名の松平家に婿養子した。婿養子の大名は、一般的に、また事実上、血縁の者よりも有能で活動的。中でも、知能に優れ先見の明ある春嶽に匹敵する大名は、徳川時代2世紀半を通してさほどいなかった。マシュー・ペリーと黒船艦隊の侵入前にさかのぼっても、彼の藩では、春嶽は西欧化に乗り出しており、地域経済を米作や他の穀物生産依存から産業志向に大幅転換していた。彼はまた、地域において先進的な統治者で、疱瘡(ほうそう)がはやったとき、予防接種を全域で受けさせ、死亡率を劇的に減らした。

 性格的に、彼は一見、理想に燃える政治志向よりも、大名には不似合いな書生っぽい肌触りだった。しかし彼は間違いなく啓発された指導者だったから、観念的には、差し迫る海外からの侵略可能性に関する強烈な危機意識充満の水戸派だった。が、これは後に宗旨替えすることになる。

 それが、ある晩女性用の駕籠に乗って一橋邸を訪れた男だった。入口通路に入るとすぐ、慶喜と話したいと言って姿を現した。大名が一人で別の大名邸を訪れることは例がなかった。春嶽はその通路に集まって騒がしい家臣たちに気づき、お忍びなのだから、儀礼やもてなしといったことで彼らが患う必要なし、と納得させた。そうした後で、彼は館に消えた。

 「越前藩からです。一度厠(便所)でお会いしたかな」、と気軽に話しかけ、慶喜が覚えているか問うた。彼の笑い声は女性のようにかん高かった。「なるほど、越前殿だ」、と慶喜は納得した。一般の大名にあらず、彼は御三家と御三卿に次ぐ一族を成していた。

 「多分お気づきだろうが、私は貴殿が将軍の跡継ぎになるとの思いで今まで来た」、と春嶽。「しかし私ははっきり言って、貴殿のことをほとんど存じ上げていない。こんなことあってはいけない!」 それが彼、慶喜に直に接したいお忍びのわけだ、と説明した。

 春嶽は日本に漂い始めた危機に触れ、答えは尊王攘夷〝天皇を敬い、野蛮人を追い払う〟だった。危機回避の策は三つだ。国防強化、西欧兵器増強、そして国民感情の一本化。かといって、その全てが叶えられたとしても、家定のような能なしの下では何ともならない。誰かが現れなければならない。大胆さと先見の明をもって将軍の代理となり、各藩をまとめて海外の野蛮人たちに立ち向かう。そんな力量を有する人物は一橋慶喜をおいてほかにない。それが国を救いたい一心の春嶽をして慶喜が将軍の跡継ぎになるとの最終見通しにまい進させたのだった。春嶽は行動力を備えた革新派だ。その活動を成功させるために、彼は全方位囲い込みに出て、幕閣、城勤めの女たち、そして力ある諸藩の支持を取り付けた。彼によれば、贈賄までに至った。「それにしても」と、彼は戸惑いながらこう結論付けた。「私が怠っていた一つは、彼その人と面と向かって語り合い、ひたすらに敬意を払うことだ」。

 「貴殿は私を持ち上げすぎている」と、わけが分からず慶喜はつぶやいた。

 春嶽は慶喜と2時間ほど語らって引き返したが、心は浮き立っていた。待望の神童は、噂で期待した以上の才能と力量ある若者だと理解して。

 「一体全体どういうことなのか?」、慶喜は全てが押し付けだと分かった。おかしい、これは。彼の固辞にかかわらず、みんなが彼に心を寄せてそのように彼を押し上げたのだ。松平春嶽のみならず、土佐、薩摩、宇和島、越前といった主流藩の4大名や国中の全ての愛国者が、鼻持ちならぬほどへりくだり、ただただ頭を下げて、一橋慶喜に家定の後継になってほしいとひたすら願った。一旦彼がその任につけば、国難は魔法にかかったように雲散霧消するだろう。一見そんな考え方が広がっていた。

 次の逸話がこのいかにも単純な彼らの信条を解き明かしてくれるのではないか。慶喜信奉者獲得の争いで明らかな勝利の後、春嶽は土佐邸に立ち寄り、この朗報を土佐大名の山内容堂と分かち合った。賄賂と圧力に応えて首脳の一人松平忠固(ただかた)は慶喜を担ぎ上げることに尽力すると同意していた。そんな約束は無意味だったが、かつては騙されやすい凡々だった春嶽は、今度も簡単にだまされた。しかも容堂も怪しんでいる様子はなかった。これを聞いて彼は盃をぶっちゃけて、仁王立ちし、世も末との形相で、「国は救われるのだ!」と言い放った。そして、扇を広げすり足で進んで舞を舞った。

 慶喜のもう一人の後ろ盾である薩摩藩主の島津斉彬はもっとはるかに藩内で君臨していた。慶喜を持ち上げている首脳大名として、彼は最も前進的で、最も教養があり、最も政治的に素早かったから、その持ち味全てが彼の撤退への典型的なぎこちなさに現れた。力を誇示する大奥での反水戸感情を和らげる目的で、彼は将軍家定に養子縁組させていた自分の養女を彼と結婚させた。彼女は将軍の妻として、当然ながら、知能の低い将軍を手なずけるべくいっぱしの自由な振る舞いができるようになっていた。

 「将軍は尋常な人ではない。娘よ、私はお前を気遣うが、お前はまず国のことを考えてそのためにやむを得ない犠牲婚を考えなければならない」。斉彬はこのうら若き女性で、器量も才知も整ったわが子にこう諭していた。娘の潜在可能性に焦点を当てた後、彼は娘をもらい受け、大名の娘にふさわしい名に変えて、篤姫とした。その後彼は篤姫を近衛家の養女として渡した。近衛家は、将軍家の摂政として高位の家柄だった。そしてそれは、彼女が将軍家に嫁ぐことをこれ以上なくふさわしいとした。

 結婚は幕府の首相ともいえる阿部正弘によって仕組まれた。彼と斉彬は盟友だった。二人は互いの教養に敬意を払うと同時に互いを利用しあった。島津斉彬と自身を結びつけることによって、阿部は2世紀以上続いたタブーを破ろうとしていた。遠く家康の時代以来徳川幕府の国内防備の中心は、当初から 王朝守護神たる徳川家康の敵を打ち負かすために許されていた、西部の強力な外様たる長州藩と薩摩藩の東部侵攻に対する防備だった。大きな脅威は、江戸幕府に対抗するため、彼らが天皇を旗印に一塊(ひとかたまり)になって京都を占拠するやもしれぬ、だった。それは自身の遺骸が久能山中で西に向かって葬られるよう家康がはっきりと遺書を残した理由だった。同じ推論によって、幕府は江戸城の建築及び配置を統括し、加えて長州と薩摩藩が瀬戸内海沿いに京の都と西の地域を結ぶ道を攻撃しながら都に向かうと予想したであろう結果、そんな謀略がなされないよう、姫路、大坂、名古屋に巨大な城を建立した。

03.好機を逸する (1) 朗読: 30:49

 

03. 好機を逸する (2)

 さて、薩摩が幕府の首脳である阿部正弘と力を合わせようとしていた。さらに、阿部は、言うところの徳川家に対する裏切り家である水戸と盟友関係を築いたのは、彼らの実力を利用して海外勢力からの防御に当たるためだった。阿部が篤姫が家定に嫁ぐことと慶喜を跡継ぎとすることを進めるために、あらん限りのことをしたのは言うまでもない。

 春嶽が女の駕籠で慶喜を訪ねる以前に、篤姫は家定の三番目の妻になっていた。「篤姫にとって、明らかに平穏無事とは言えないのですが」、と春嶽は慶喜に明かし、夫婦の秘め事に少し触れた。日常の夫婦関係が不可能なまま、家定は姫に何の高ぶった気持ちを持たず、押し付けで(とつ)がされてきたのだと思った。頑強な力を持つ母の本寿院は篤姫に注意の目を向け、最大限寄せ付けないようにしているようだ。

 春嶽は言う。「とはいえ、いま私は壁の向こうの大奥がどうなっているかをはっきり知りえている」。内密の情報のやり取りが彼の江戸の舘で、篤姫と彼あるいは彼の側近の間で交わされていた。斉彬もまた、彼が聞き取った情報を事細かに春嶽に伝えていた。

 こうした政治的内幕は、まだ慶喜にはわかりかねた。日本を救えるのは彼だけだとの春嶽の断言にもかかわらず、彼のような若造がいかにそんな力を持てるかを彼が知るすべはなかった。
 「そうではないか、平岡?」、彼はある日平岡円四郎に話した。平岡はあの頃よりずっと大人になっている。ご飯の盛り方すらできなかったぎこちない出だしだったが、今では彼の立ち居振る舞いは一橋邸を訪れる愛国者や力のあるすべての人たちの尊敬を得ていた。平岡は慶喜のそのような事情を絶対に受け入れなかったが、事実上彼は主君の昇進を先導する中核だった。春嶽の希望で、彼は慶喜の日常生活の記録を「一橋慶喜の言行力」のタイトルで編纂した。春嶽は臣下にそれをコピーさせ、幕府や国内の有力者に配布させた。その冊子によって慶喜の先見の明が世間一般でも受け入れられるようにとの思いで。それがこの若者を幕府の盟主にならせたい春嶽の意図で、平岡は彼独特のお披露目のやり方は当を得ていると信じた。

 彼は言う。「殿、人間の持てる力は度々自らを信じることによって生まれるように思います。今それが殿に必要なことです。敢えて言うなら、殿は家康公以来国内で知りうる最高の天分をお持ちです。殿以外のだれでもなく、殿は野蛮人を追い払い、わが国の平和と繁栄を取り戻し、それによって京におわす天皇の願いを全うさせることのできる方です」。

 「違うよ。それはまさに私の父のなすべきことだ」、慶喜は苦笑いしながら答えた。斉昭ほど世間の信頼を勝ち得ている者はいなかった。愛国者の多くは彼を超人と見做した。慶喜への儒教訓育は彼をして父をあがめるよう教育したのだった。が、彼に芽生えつつあるのは、斉昭が世間の評判どおりではなく、事実上斉昭を数多(あまた)の中の巨人のように見立てさせたのは、侍従藤田東湖と背後の側近たちの腕力・能力だ。慶喜にとって、父の世間体は概ね現実と関係なく、彼をどこかイライラさせるふるまいのようだった。

 「私はこれっぽっちも欲していない」、と彼は言った。平岡は驚いてとっさに、慶喜が多分高貴な育ちのせいで野望のかけらもないと理解した。力を有する男の内縁の妻から生まれた非嫡出子で同様の背景を持つ男児なら強い野望を抱きそうなはずだが、慶喜は父の正妻の子であった。申し分のない高貴の出として、彼は常に何らかの特権を与えられており、それを承知していたから、一般人のように自己改善を要求されることはなかったし、その必要もなかった。

 「何かがなされなければ」、と平岡は思った。かつては賢人の持ち味であった正直一筋できた平岡が、最近自身の野望に目覚めてきていた。もし慶喜が将軍になれば、彼、平岡、は国の日常諸般を任されることになろう。そんな責任ある地位を得る満足感を別にしても、自身の考えを大っぴらに伝えられる喜びに勝るものはなかろう。しかしこの魅力的な絵が現実になるためには、まず慶喜が確実に跡取りになることが第一だった。

 春嶽のみならず、水戸家一同は、慶喜を騙して跡取りという地位につかせるよう裏工作に明け暮れていた。表面上斉昭は、オレの知ったことではないと言い放っていた。が、裏では陰謀工作が本格的になっていた。斉昭自身陰謀首謀者の素質を備えていた。彼は藤田東湖ともう一人を事実上の核とし、仲間内の話や文書全てにおいて暗号さえ使わせた。

 慶喜の暗号名は〝アミイサ〟、網での漁獲好きが暗に想像される。慶喜は、そんな役職への思いはないから、平岡を呼び止めて、たまたまいろいろなカタカナ文字をメモしてある小冊子のそのところを指し示し、その暗号名が何なのか目安がついた。

 「これは何だ?」、小冊子を前に彼は質問する。平岡は一瞬戸惑うが、すぐ元に戻り、あからさまに真実を答えた。加えて、「殿、どうぞ来るべき時に備えてください」。

 慶喜は嫌な顔をして恨めしそうに、「全部裏切り者の仕業だ」と言い、青くなって自室に突入し、父宛に怒りの手紙を殴り書きした。「私が将軍の継承者になるようにとのうわさがあります。私にとっては極めて不快です。もしそんなことがお耳に入ったら、即座に拒否してください」。

 彼は手紙を男でなく、唐橋という女に託した。彼女は政治的に一切関りがないから、途中で手紙を奪われたり読まれたりする心配はない。唐橋は京の貴族の娘だった。ほとんどの歴史家は彼女を老女と記しているが、実際は22才手前だった。

 摂政一条忠香(ただか)の幼女である慶喜の妻美賀子が京の都から江戸へ嫁入りの旅をしたとき、唐橋は付き添っていた。彼女は一橋家では家事一切の元締めだから、慶喜が将軍になれば、彼女は自動的に、男なら大名格の、中老またはその上の役職になるはずだ。

 平岡円四郎は慶喜に対して、「唐橋には手を付けられませぬよう」と話していた。もし慶喜が彼女となじみになれば、慶喜が将軍になったとき、家事一切を彼女に任せられなくなろうとのことだ。彼の侍従長である平岡がこの出過ぎた意見を天命と思ってなしたことは、慶喜が彼女を愛撫する欲望によって、彼が内心ゾッとしているように見える。それ自体、男、とくに大名にとって決して悪いことではないのだが、この慶喜の異常な体力が公的な野望に変化することはあり得ないことが彼を苦しめた。とりわけ彼が感じたのは、慶喜がひたすら一族の存続のために種馬ごときに使われる平静な大名であってはならないということだった。

 唐橋との親し気な振る舞いは止めた方がよいと気付かされ、「わかった、わかった」と、慶喜はうなずいた。しかしこの女性、正直美しすぎてそんな冷静な気持ちにさせなかった。長身は難点だが、手は箸のように細くて長くて優美で、上品だった。手指の細やかな女性が技と能力で仕事をやり遂げているのを見て、慶喜は魅了された。彼女の体は一体どんなだろう? 彼女を見る都度彼の胸は高鳴り、興味はそれに勝った。もはや恋と同じ妄念だ。慶喜の今の地位であれば、そんな初期的段階はロマンチックな関係へのあこがれに終わらせることなく常に欲望はたやすく満たされたはずだ。事実上慶喜にかしずく全ての女性は彼の行きがかりの欲望対象になっていた。平岡はこんな振る舞いを身だらとみた。

 「唐橋を借りたいのだが」、慶喜は妻に申し渡した。唐橋は彼の妻の召使いだから、命令は彼女からだった。

 駒込の水戸屋敷に手紙を届けてほしいとの美賀子の指示で、唐橋は銀の着物で駕籠に乗った。夜中に戻り、美賀子に報告したが、彼女はどこか様子がままならなかった。息苦しく、明らかに疲れていた。女主人が様子を尋ねたところ、唐橋は子供のようにただ首を振るだけで、顔を上げなかった。彼女は泣いていた。

 そしてすべてが明らかになった。この手紙は他の何者にも見られてはならない、と申し渡されていたから、彼女は私的に彼の父に謁見して自分の目の前で開封してくれるよう許しを請うことになっていた。そのようになった。

 斉昭は茶室で彼女を迎えた。手紙を一通り読んで、唐橋に礼を言い、そして突然彼女を抱いた。「手紙にこうあるのだ」と彼はつぶやき、「オレの言うとおりにせよ」。彼は慶喜が手紙を書いたのは唐橋を彼のところに来させるためで、だから唐橋自身が届けることになったと思わせようとした。それから後に、美賀子の問いに応えて唐橋が打ち明けたのは、逆らったが駄目だった、ということ。理由もなく手籠めにされたのなら、彼女は、自身の幼稚さ故として何も言わなかっただろう。しかし、事実は違っていた。明らかに慶喜は手紙を父に届けるよう彼女に託したのだ。彼女は裏切られたと感じた。「一体どうなりはるのか!」、彼女は京言葉を発して乱れて泣いた。彼女にとって慶喜はこの世で一番高貴な男に見えていた。事実、心では彼に恋していた。まさか彼女の恋心がこのようにみじめな仕返しを受けるとは夢にも思っていなかった。

 妻からこの話を聞き、今度は慶喜が裏切られたとの思いで驚く番だった。彼と斉昭は父子であると同時に大名同士の関係だ。ある大名が別の大名の女を手籠めにするとは信じられないこと。「それが父のやることか」、慶喜はへどの出る思いになった。父が悪名高き女たらしだということは、彼をそれに比べて能なしだとして落としめた。しかし、彼が女をそそのかすためにそんなペテンを仕掛けるということは何を意味しているのか? 慶喜はまるで父のはらわたを投げつけられたかのごとく、居ても立ってもいられなくなった。彼はそんな腹立たしいことから逃れようと苦闘した。もし彼が戦時下のハチャメチャな年ごろの心ない大名だったなら、激烈な心の変化を直接ぶちまけるのに何の罪意識も感じなかったろう。しかし慶喜は徳川幕府が終焉に近づいているときに生まれた。ちょうど子供としての在り方を説く儒教が広く行き渡り受け入れられていた頃だった。教育全てに儒教思想が深くしみ込んでいた。加えて、教育に行動が伴う時代だった。慶喜には、感情をじっと目で見据えることが唯一可能な身の振る舞いだった。

 「父は戦略家だ」、彼は妻に説明を強いられて、そう言った。続けて、戦国時代の大将がそうであったように、今現在だって戦略が道義に先行する場合がある、と。

 「いずれにしても、私を信じてほしい。手紙には唐橋を(おとし)めるようなことは何もなかったのだ」。内心、「父には気を付けなければ」、そう思った。そして彼は正しかった。斉昭は軽く扱われるような男ではなかった。慶喜の手紙を受け取った後、彼は共謀者に書をしたためた。戸田と藤田で、内容はこうだった。「アミイカ(慶喜)は手紙を寄こした結果こうなった。もしこうした報告が彼の耳に達したら、我々の喜びだ。これは彼を跡取りに上らせようとする動きがそこいらの少数共謀者に限られているのではなく、大勢の支持を得ていることの証左だ」。彼は希望をもってこう締めくくった。「どれほどささやかな噂でもこんな証拠としてとらえられる」。

 しかし江戸城内で、御三家紀伊の少年君主徳川慶福(よしとみ)を候補に推す動きが、ただでさえ不気味なほどの沈黙に包まれた中で、最終的にはどうやら功を奏しそうだった。常識的には、12才の少年慶福は、この国難のときに300藩の大名を率いることは不可能と言えよう。加えて、彼が徳川家の君主になれば、紀伊家は自藩の君主を欠くことになる。いずれにしても慶福は、将軍職に就くには適切ではなかった。

 それにしてもまだ、次の将軍は慶福を置いてほかにないと断じる現実政治家がいた。現在権力の座にいる者たちは、低能の将軍を笠に着て、勝手気ままに君臨していた。彼らは現状がこれからも続くのであれば、何も機転や能力や改革志向を備えた君主を欲しはしなかった。少年は彼らの見通しにぴったりだった。ほかにも、一橋慶喜は政治上の悪臭を放っていた。彼自身何の野望もなくても、後ろ盾が水戸家で、水戸斉昭は実質上の君主になると予想されよう。紀伊派は斉昭を〝悪の龍〟と呼んだ。悪の龍がトップになれば、国全体がその手中に落ちよう。

 どうであれ、最後の断は将軍家定にゆだねられており、母本寿院は彼の耳にこうささやいていると、もっぱらの噂だった。「もしお前が後継に一橋公を選ぶとすれば、私は自分の喉を掻き切って死にます。それを承知で彼を選びますか?」 彼女にとって慶喜は悪の龍の子息以外の何者でもなかった。

 慶喜支持派への希望の灯は、阿部正弘が彼を擁護しているということだった。「正しい判断を期待できるときには、私は将軍と直に話す」、と彼は春嶽らに申し渡した。しかし正しい判断はまるでなされそうになかった。家定はほとんど外部の声に耳を貸さず、ひたすら母と乳母とだけに意思を通じた。阿部が話した〝正しい判断〟は、将軍が若死にする可能性を遠回しに言ったのだろう。

 そして悪いことに、家定の前に、阿部自身が突然帰らぬ人となった。安政4年(1857年)で、まだ38才だった。慶喜、28才。阿部正弘の死は、慶喜が第14代将軍になるチャンスを摘んでしまった。チャンスが再び訪れるまで、さらに10年を要することになる。