約束通り、慶喜は徳川家の当主になった。
家茂の死から7日経っている。慶喜は将軍ではないからこの儀式の前例はなかった。そして彼はその時京都にいたので、継承式典は、慣例通り江戸で行うことはできなかった。必然的に儀式は簡便になろう。
この在り様にたじろいで、大老として将軍関係儀式を取り仕切る立場にある板倉は遂に慶喜のところへ行き、どうすればいいかを彼に尋ねた。慶喜は、まるで100年も幕府幹部であったかのように、自信に満ちゆったりした口調で答えていく。
板倉はその答えに従った。第一に、病に伏していると思われる〝将軍職〟の名で上奏書を提出した。内容はこうだ。家茂は春の終わりころから病気に罹り、その後任務不可能な容態にまでなっており、これ以上の悪化を自ら懸念して、彼は徳川家当主を慶喜に譲りたいとの考えに至った。上奏書が天皇に届けられるや皇居の承認が得られた。これ以上ない速さだった。
慶喜の身分は今までと同じで、将軍職は依然として故人の徳川家茂だった。
皇居の承認は1866年9月7日になされた。板倉は京都の慶喜邸へ行き、彼にその書面を手渡した。慶喜は、立ち椅子に背筋を伸ばして座り、黙って受け取った。委細の報告が終わっても、彼は黙したままだった。
彼の眼は、板倉の頭上の向こう、部屋を仕切るふすまに描かれた竹の絵に吸い付いている。慶喜も同様にこの瞬間、何の用意もなかった。話そうとしても、喉がしびれて声帯は閉じられていた。なぜ彼はさほどに感極まったのか? 例え将軍ではないとしても、事実上彼は徳川家第15代将軍になったのだ。家康のときから今まで、200年を超す歴史、伝統、栄光、これらが今彼に重くのしかかっている。この重さがこのように圧倒的な圧力でのしかかってくること自体慶喜には全く予想外だった。しかも彼の理屈がそうなるであろうと見通したのはまさかこんなに重くて厄介なものではなかった。反対に彼を驚かせたのは、彼を心底から歓喜させるような神々しい色彩をそれは帯びていた。慶喜は戸惑った。もし口を開けば、感情の高まりに負けて歓喜の雄たけびが出てしまうのではないかと恐れた。彼はこの不思議な幻想を必死に抑えていたのだ。彼の沈黙は続いていた。
最後に彼の頭脳は動き出し、元の調子に戻った。この歓喜、彼にとっては疑いもなく憎むべき歓喜、は他の何かにとって替えなければならないだろう。彼は替えなければならない。それに替えて何らかのものを与える。そうなれば、叫ぶこともできようし、それを体から完全に取り払えよう。さもなくば、間違いなく度外れた恍惚の叫びを発してしまうと恐れた。慶喜の脳裏は替わりの何かを探している。そこでパッとひらめいたのが長州、そして戦闘。
その年の7月中旬にはじまっていた長州征伐の出陣は、小さな外様藩の手の内で繰り返し恥ずかしい敗戦を味わうという予想外の苦戦を強いられていた。これは彼が声を大にすべきことだった。今やその大将として、戦闘は完全に振出しに戻って再開せねばならなかろう。ということはこうだ。彼らは新しい大軍を派遣し、大攻勢をかけ、大量の大砲射撃で長州を全滅させ、それによって国内国外のどちらにおいても史上最低になり下がっている幕府の権威と幕府への忠誠を即座に取り戻すということ。そのために慶喜自身先頭に立ち、自らの声で大隊の士気を鼓舞しなければならないだろう。それはちょうど徳川家康が幕府を打ち立てたとき、関ケ原の合戦でやったことと同じだ。さもなければ、彼が徳川家の当主になったことの意義は何なのだ?
「伊賀! 伊賀!」、慶喜は雷鳴のような大声で伊賀当主板倉勝清を呼ぶ。板倉は彼の目の前にいるのに。「長州に大攻撃を仕掛けよ!」
板倉は驚いて言葉を失う。慶喜は三度命令を繰り返し、その大声は板倉の耳をつんざいた。彼はこの時をもって〝お打ち込み〟と名付けていた。間をおかずそこに幕府と宮中の兵士がこぞって大攻勢をかけることになろう。
そこで慶喜は「私も行くぞ」と掛け声。彼の頭は今やフル回転で、攻撃の陣形を詳細打ち合わせた。もはや幕府は封建藩主たちを当てにせず、独自の軍隊に集中している。刀と槍の出で立ちを別にすれば、全ての舞台は洋式の兵士たちだ。江戸と大坂には今や13の歩兵大隊がおり、さらに大砲も18基整っている。慶喜自身がそれらを束ねて西の長州に向かうのだ、と言った。板倉は、ほかに20の新規大隊が援軍としてそれぞれ待機していることを見て取った。この全ての攻撃態勢を慶喜は鮮明な記憶をたどるように一息で宣言した。
彼は自身の遠征計画の議論を続ける。もはやここでは、風呂桶に至るまで何から何までの際限なくだらだらとした議論はない。ちょうどナポレオンのようなヨーロッパの総指揮官同様、彼は3つのナップサックで十分だった。1つには温かい毛布、1つには着替えの下着と上着、もう1つには時計その他。食べ物? 他の兵士同様、割り当てにあずかる。
体の中で何らかの機械がフル回転しているかのごとく立て続けに彼はしゃべっていく。その全てがこれまでにない考え方で彩られ、具体策で満ちている。板倉は呆然自失。この徳川大隊の大将たる彼は、いかなる明晰な頭脳をお持ちか?
次に慶喜は原市之進らを呼び、戦略会議に入った。彼らは10日以内に戦場に入る手はずだが、その前に2隻の軍艦を手に入れなければならない。外国貿易商がすでにやって来て、長崎と横浜両港に1隻ずつ売り渡す用意ができている。「買いなさい」、と慶喜は命じた。そして最後に全員に向かってこう言う。「この大攻撃について噂を広げよ。声を張り上げ、はっきりと!」。公表と宣伝は長州部隊の士気をくじくことになり、幕府の権威を他の諸藩に知らしめよう。みんなに、屋根に上って叫ばせろ!
松平春嶽は庶民がこの噂を叫んでいるのを聞いて、驚いた。すぐさま彼は慶喜邸へ急ぎ、会見を求めた、慶喜はその日訪問者が多く、春嶽は隣室で茶のもてなしを受けながらしばらく待たされた。
「この人物、全く予測不可能だ」、春嶽は慶喜をどう判断すればよいか途方に暮れている。彼は自身、長州への出陣に反対してきた。彼のみならず、賢人の山内容堂、伊達宗城たちも等しく反対だった。
彼らが反対する主な理由は、外国勢がじっと見守る中で、国内においてただならぬことが起きれば、国をもっと危険にさらすだけで、結局は幕府のタダでさえ不安定な命運を縮めてしまうことになりかねない、と言うこと。加えて、大隊の各藩負担金は限界を超えている。さらに、もし内戦が物価高騰につながれば(事実上、外国勢到来以来、物価はうなぎのぼりに吊り上がっている)、国民の憤懣の糸が切れて、暴動や反乱が国中で起こるやもしれない。
しかしこれらを超えて、今春嶽を悩ませているもっと大きな疑念は、むしろ、慶喜の言動の高揚に関係している。つい先日には、大名会議を国家最高権威にしろと慶喜は彼に言っていなかったのでは? いかにして彼は翻意し、誰に相談することもなく、そんな重大事を勝手に決めることができたのか?
やっと春嶽は慶喜との会見を許され、こうした疑念を例の気軽な話しっぷりで打ち明けた。
慶喜は動じなかった。「あの時私が言ったことは、もしいつか将軍に選ばれたら、行いたい事柄だった」。
「事実として私は徳川家の当主を継いだだけだから、やむなく閣議となったのだ」
彼の抗弁はもっともだが、春嶽の尋ねていることはもっと奥が深い。彼が知りたかったのは、慶喜の本意はどこにあるのかだ。彼の言い分が今のように日替わりにぶれれば、幕府家臣や一般庶民は彼を誤解して、その行動を疑うことになろう。しかし春嶽は面と向かってあからさまに慶喜を批判する厚かましさは持ち合わせていない。
慶喜は、「春嶽殿、あなたは私の真の目的が分からないのか」とでも言うように、彼を見つめた。が、実際に彼の口をついたのは、「一撃を食らわせよう」だった。彼は長州を打ち破るべく大打撃隊を率い、それによって幕府の権威を取り戻し、戦闘を和やかに終わらせる。
彼はこう言う。この攻撃を成功させるべく、彼自身が南から、別の大将が北から攻め、両者が山口藩の首都に進攻して、そこで長州に降伏を迫る。この作戦の最終点は軍事でなく政治だ。彼はほかならぬ春嶽が十分に理解してくれると確信していた。なんかおだてられた感じで、春嶽の態度は幾分和らいだ。
慶喜は皇居を駆け引きに使おうとしていた。長州の活動家はいまも〝天皇の敵〟とのレッテルを張られ、慶喜は来るべき出陣が〝天皇命令による行動〟との旗印を得ようとした。長州人にとってこの心理的衝撃は計り知れなくなりそうだ。
宮中では、慶喜の要望全てが承諾された。皇族も親王たちもほぼ全て幕府の味方であり、孝明天皇は長州が大嫌いだ。だからこの慶喜の大胆な計画は圧倒的に賛同を得た。
そして遂に準備完了。数日後、慶喜は最高司令長の礼服を身にまとい、国家最高位の将軍代理として皇居に入った。
天皇は皇居広場にある小さな宮殿で彼を待っていた。2人は黙って会釈してから、天皇は慶喜と連れ立って書斎へ移動した。そこで徳川慶喜に長州を攻撃しせん滅するよう命じた。加えて、慶喜に刀剣を与えた。
中国と日本では、天皇の命を受けて遠征する軍隊の司令官は、伝統的に、暴徒を打ち倒すべく天皇から特別の刀剣を授かることになっていた。奈良時代から平安時代にかけてこの慣習が何度も引き継がれたが、1180年代に源頼朝が鎌倉幕府(日本最初の戦国政府)を樹立してから、軍事力はひとえに武士階級が果たすことになった。天皇の命による軍事遠征は、天皇から刀剣を授かる慣習とともに、過去のこととなった。だから慶喜が授かった刀剣は、680年も昔の伝統の復活と言えた。
当然ながら、この儀式は天皇の命で行われたのではなく、慶喜の発案だった。宮中は彼の案に寸分の違いなく従った。昔を懐かしむ以上に儀式は政治的重要性を帯びた。天皇から慶喜への刀剣授与は源頼朝時代以来続いていた戦国ルールを初めて反故にした。平安時代以前の戦闘大将さながらに、慶喜は天皇の配下として刀剣を受け取った。
いずれにしても、慶喜の長州征伐は、天皇まで巻き込んで、華やかな出初式となった。宮中では、昔からの習わしで、長州征伐のため、それぞれ7つの神社仏閣で祈願すべしとの命令がなされた。
それから6日しか経たないうちに、慶喜は、攻撃をあきらめるとの声明を発し、宮中を取り巻く全てを唖然とさせた。理由が明かされないままで。いずれにしても、攻撃は中止する。そして慶喜は物事が思ったとおりに進まないと承知しないたちだから。天皇に対して遠征中止の書状を送るように要請までした。攻撃は9月13日に宣言され、10日経たぬうちに中止された。孝明天皇が激怒しないわけはない。
突然の方向転換の理由は間もなく明らかになった。現状の長州との戦闘状況では幕府軍は小栗城で優位に立っていたが、9月10日には流れが変わっていた。騎兵隊と称する長州の義勇軍が高杉晋作の指揮下で雪崩を打ち小栗藩を撃滅した。城主小笠原豊千代丸自身城に火をつけ逃げ出した。大老の小笠原長行は戦場をほったらかして幕府の戦艦へ逃げ延び、長崎経由で兵庫まで来た。彼が京都に戻って慶喜に敗北の報告をしたのは9月20日だった。彼自身の弁護を含め、小笠原の一言一句は望みのない光景に彩られた。幕府軍は大混乱で、今や長州を打ち負かせるとは考えられない。
「勝利は不可能か?」、慶喜は何度も何度もしつこく言った。「不可能です」。小笠原は同じ答えを繰り返した。慶喜の頭脳の歯車は急旋回する。彼は勝ち目のない戦場に軍隊を送り込むほど愚かではなかった。しかも彼はそんな不利な状況を覆す徳川家康のような大胆さも経験も持ち合わせていない。小笠原が去ってすぐ、彼は一切攻撃を仕掛けない決心をした。原市之進とその取り巻きたちは理解した。信念を貫くことができずに裏切り者のレッテルを張られる屈辱を浴びる方が、部隊を奈落の底へ放り出すよりましだ。彼らは二条城で天皇最側近に状況を説明した。
「まるっきりアホウな意気地なしではないか」。他の地域から京都に集合した武士たちの意見だ。宮中の幕府派皇族たちでさえ内々にこの大失態を回復させるべくチャンスを急いだ。大老で長きにわたり長州撃退派である松平容保も憤慨した。松平春嶽は、基本的に攻撃反対だったが、不安満面だ。この不快な心変わりは幕府の家臣たちの考え方にどう影響するか? 春嶽が知る限り、徳川時代はじまって以来、軍事関連の歴史において慶喜のこのような愚劣な行動をとったものは誰一人いない。が、ちょっと待て。慶喜は馬鹿ではなかった。彼の統治本能は少なくとも家康や吉宗のそれに匹敵し、その上彼らよりもっと優れた教育を受けている。それでいて、彼はこれまでの将軍が為した最も馬鹿げたことどもをさえ上回るあきれ果てた愚劣行動を何度も犯した。
春嶽は言う。「こうなった全てがこれだ。この男、間違いなく機智も能力もあろうが、何の勇気もない。勇気なしでは、ありとあらゆる創意や明晰さは空っぽのだまし絵だ」。
この嘲笑の雨降りしきる中で、慶喜は内なる後悔も外なる恥辱も感じていない。この点で、彼はたまげた勇気を見せしめている。彼は自身の全ての行動に自覚があり、自分自身が唯一の実行部隊であることに極めて満足している。勇気や単なる頑固よりももっと、彼の静かなる自信と自立は真の貴族の印だった。
この状況変化に対する彼の機敏さは言葉に表せない。天皇に撤回の報告を済ませるや否や、海軍奉行を長州に走らせ、平和交渉を開始することにした。
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