慶喜(現、中納言)のだまし技によって最大最速の不便を被ったのは、彼の私的側近である平岡円四郎らだった。江戸の排外・尊王の志士らは彼らの邸宅に押し入り、手は刀の鞘を握り、外国勢追放の勅令を反故にしてしまったのかと詰問した。いまは平岡の親友である渋沢栄二郎も志士らとともにいた。
「わが藩の家臣は全て激怒している」と渋沢。
「中納言にか?」と平岡。
「そうではないが」、と渋沢は平岡と他の者たちに言う。
排外志士の中でも慶喜への忠誠が高い彼らは、慶喜がそんなことをしてしまったことが許せない。逆に彼らは慶喜の取り巻きが変なこだわりと遅きに失しさせた道を辿らせて判断を鈍らせているに違いないと見なした。
「中には貴殿の生首を欲する者もいる」、と渋沢は付言し、仲間たちを密告する意図はなく、むしろ世間の声をあからさまに平岡に知らせ、対外国政策を強化させる梃子として使おうとした。
慶喜に召し抱えられるまでは、平岡は他の愛国者と同様に熱心な排外主義者だったが、強力な一橋家とつながり、国の政策に力量をもって関与しだすと、軟弱になってしまった、と渋沢には思えた。見るからに彼は〝鎖国・攘夷〟を捨て、〝開国・外国に敬意〟に傾いた。
「御身に気をつけなさい」、と渋沢は忠告した。
この話し合いの結果、平岡は極めて注意深くなり、日が暮れると外出や大勢と交わることを控えた。長付き合いの友人や仲間だけは遠ざけることはできず、これまで通りだった。
来訪者は彼をなじった。ある時追い詰められて、彼は怒りに震えた。「見てみろ。私はもはや様子見政治など何ら支持していない。私はいまもこれまでも一貫して排外信者だ。徳川斉昭の考え方が私の血にみなぎっている!」
「それで、だれがそんなやましい考えを殿に吹き込んでいるのか?」と、質問者は迫る。
「そうだなあ、…、中根長十郎かも」と、彼は出まかせに答えた。もちろんこれはデタラメで、中根長十郎はいずれに加担した政治的意見も持ち合わせていなかった。平岡の側近として、一橋家の家計のやりくりを任せられ、それに満足していた。
平岡は、中根のような堅物なら格好の盾になってくれよう、と自己弁護を込めとっさの思い付きで彼の名を口走ったのだ。中根にとっては、まことに不運な名ざしだった。
数日後に雨が降った。中根長十郎は、夕刻帰宅の途中、雉子橋門を通り抜けた。城外へ一歩出るや、傘が後ろに飛ばされ、突然の攻撃にあった。前のめりに倒れこむと、無数の刃が頭、顔面、両肩を襲い、20か所以上の刺し傷で殺された。
慶喜がこれを聞き、犯人たちの即時洗い出しを命じたが、幸なく終わった。平岡円四郎がやって来て、「お聴きください。私の責任です」、と記憶にあるその顛末の全てを打ち明けた。
慶喜はいつもの癖で、首をやや上向きにして平岡を見つめ、黙って聞き、こう言った。「いや、責任はこのご時世だ」と。しかし正確に言えば、責任は慶喜自身の手の込んだ策略にあった。中根は慶喜のあまりにも小賢しいだまし技の犠牲になったのだ。そのこと、平岡はかすかに承知しており、本来なら中根ではなく自身がその運命にあったのだ。しかしそんな細かなことは慶喜の知るところではなかった。この限りでは彼はまさに貴族だった。
その間にも、慶喜の自作自演による筋書きは前に進んでいた。彼の辞任の申し出で、京都は当然ながら憤慨どころではなかった。宮中に関する限り、また二条城の将軍にしても、排外主義は慶喜がいてこそ可能だった。どこを探しても外国勢に対抗する日本軍を率いる地位と実力の持ち主が他にいるはずはない。京都から次々と職に留まるよう緊急特命を携えた使者が訪れた。幕府の特別命令により、慶喜の兄が立ち寄った形で、翻意を進めた。挙句は慶喜を支持しない江戸の老中たちまでも、落ち込んで同じ趣旨で。
遂に京都守護職の鷹司から書状が届けられ、天皇ご自身が慶喜の翻意を命じている、と。慶喜の辞任願い以来、天皇は食事も睡眠もままならないのだ、と。
「しかし外国勢駆逐の天皇のご意思は不動です。もはや引返すこと能わずと心してください。天皇は犠牲を十分に承知しています。たとえ帝国焦土作戦になろうとも、」と。
慶喜の心は沈んだ。彼が薄々感じていたのは、孝明天皇が尋常を超えた不屈の精神と叡智と能力の持ち主だということだが、それとは別に、天皇は過激派に囲まれ、その過激派は日本を取り巻く状況について全く知らせず、真っ暗闇だから、天皇の国際感覚は幼児と同じだった。信じがたいが、ペリー艦隊が来航したあと、天皇がこの出来事について目で確かめたすべては江戸の浮世絵画家が手前勝手に描いたペリーの彫りの浅い童話的な肖像画だけだった。その絵ではペリーは獰猛な魔王の顔で、人間というより野獣だった。もしそんな者たちを天皇の領域に近づかせれば、神の国を冒涜し、先祖代々を侮辱することになろう。日本軍は侵入者たちを追い払うよう指示されなければならない。
これは天皇の唯一の政治姿勢だった。が、宮中の過激派と違って、幕府には天皇に対する反対派は一人もいず、いるのは幕府に寄りかかり、宮中を安寧にすることを求める頑固な支持者だった。この考えでは、天皇は幕府の大老たちよりももっと保守的だったろう。
天皇の考え方は何の変化ももたらしそうになかった。慶喜はその望みをあきらめたが、もう一方で満足した。この後、宮中皇族は、天皇に対して、何と崇高なお考えと自覚し、彼慶喜の仕事は確かにもっと容易になった。それは将軍幕閣にも等しく適用され、彼らは、彼に今のままでいてほしいと、彼の袖に縋りつくのみだった。多分今は変化をもたらして幕府をもっと統率できよう。彼のちょっとしただまし技はその目標に達していた。
彼が京都に戻るべく計画を練るだろうとのいかなる憶測にも答えて、「私はもはや道義心をもっては拒否できない」、と慶喜は言った。彼のだまし技が思いを遂げてなお、まだその途上にあり、さらにもっと技を磨いている。来るべき戦いで間違いなく戦死に至るだろうと話し、即刻跡継ぎの養子縁組に取り掛かるとした。(弟の余九麿だ。) それのみならず、彼は妻の美賀子と父の後家である徳信院を小石川の邸宅から引っ越させようとしていた。安全のためで、お二人は戦火から免れることができよう。それにとどまらず、彼は一橋家全ての家臣の妻子に避難を勧めた。みんな驚愕したが、慶喜は極めて冷静でふらついてなかった。
「江戸は戦場になる」と、彼は大まじめだった。(事実上、適当な住家が郊外に見当たらなかったため、彼の家族は一切避難しなかったが)、慶喜の行動は、攘夷派(野蛮人撃退派)を深く感激させた。「一橋はわれわれの唯一の希望だ」と彼らは熱意を込めて言い、彼への忠誠は絶対に間違っていなかったと胸を撫でた。いまやどんな理由であれ、彼が思いを遂げられない場合は、それは彼の取り巻きの悪魔的策謀に邪魔された結果だと彼らは見なそう。
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