10才の慶喜は当然ながらこのいきさつを知る由もなかった。1847年(弘化4年)秋初め、早くこちらへ来いとの父の強い要請を受けて、彼は江戸に向けて水戸を出発した。側近で師匠の井上甚三郎を含む13人の武士に伴われて、馬上の旅をした。一行が江戸小石川の水戸屋敷に着くまで3日を要した。
翌月初日の朝、安倍正弘ともう一人の老中戸田忠昌が将軍家慶の使者として斉昭を訪ね、少年を正式に一橋家の跡取りとする旨の将軍の意思を伝えた。一橋家は10万石の持高だった。同家は徳川御三家のように独立してはなく、知行地も有していなかった。さらに同家は藩でもなく士族でもないから、直属の臣下もなかった。逆に、同家は、将軍直属の家臣としての地位を有する旗本にかしずかれ、慶喜の身の回りはしかと見守られた。それだけだったが。一橋、清水、田安の御三卿は、法的には将軍としての跡取りを差し出す資格を有していたから、これらの家臣たちは将軍直属に位置付けられ、将軍から使わされていると見なされた。この制度は8代将軍吉宗のとき、幕府の血統を絶やさぬために定められた。将軍家に対する御三卿の唯一の義務は、健康安全に血筋を保つことであり、それを超えるいかなる役割も意思も持とうはずはなかった。
ということで、慶喜は一橋家の一員となった。幕府内ではこうささやかれた。水戸っ子として、徳川家中枢への血のつながりは少々薄いのではないか、と。これは仕方がない。紀伊と尾張は幕府と濃く血がつながっており、この二家から出たこれまでの将軍は申し分のない血統だったのだろう。しかし水戸家がこうした世継ぎにふさわしいかは予想もつかなかった。水戸家の始祖は家康の11番目の子息頼房だった。頼房の頃は将軍の血筋と近親結婚していなかったから、水戸家が将軍子息の血統であろうと、幕府への唯一の血統は今や200年前のつながりたる総始祖家康からだった。その末裔の慶喜が将軍職に名を連ねることは異常極まりなかった。
しかし、将軍家慶は非常に喜んだ。彼の愛妻である元皇女〝さち〟が慶喜の母と姉妹だったから、彼はこの少年の叔父になっていたのだ。そんなことで、「賢くて有能だとみんなが言ってるよ」、と彼は妻に話した。安倍正弘はこの姻戚関係と政治的関りあいを十二分に承知していた。
会うにつれ、家慶は慶喜にほれ込んでいった。「刑部卿殿、いろいろ学びなされ」、彼を一橋家の家長の名で呼んで、にこやかに話した。同家の前家長である少年秋丸は慶喜が婿養子になる前に病で他界していた。高位の子息を健やかに育てることは容易ではなかった。事実、家慶自身二番目の子息で、若死にした長男の竹千代を継いだのだった。竹千代は愛想がよく、だれにも悪意を抱く人物ではなかった。
さて、徳川幕府家臣の旗本は、水戸藩主の斉昭には、紀伊や尾張一族に示すような好意を持たなかった。この御三家の二家には家族のようだったが、水戸家に対して彼らは全て多少の敵意を感じ、根の深い疎外感を持っていた。理由の一つは、前述のとおり、御三家としての血のつながりが薄いことと、皇族の直接統治を復活させようとする帝国派だったから。何年にもわたって水戸藩は大金を費やして反幕の学者を集め、〝大日本史〟を編纂した。それは極めて国粋的で天皇礼賛だった。京都御所を敬い、武力制圧一筋の現政権を侮蔑した。例えば、現政権を支持する者が14世紀に源氏の武力を保持する役割を果たした総帥の足利尊氏を敬うのに対し、水戸学派の視点では、尊氏は内乱を扇動し時の後醍醐天皇を皇居から追放した無法者だ。水戸派は逆に、輝かしい戦場の策士であった楠木正成を武力制圧政権への決然たる(あるいは運命づけられた)対抗を成した真の美徳者として持ち上げた。
水戸の歴史観は、徳川幕府をコテンパンに誹謗した。これに対して「反乱はこの一族で起こる」と、将軍家家臣の間では水戸藩に対するこのようなおぼろげな感情を持ち合わせていた。噂によれば、水戸家では元祖光圀の時代にさかのぼって、こんな内々の言い伝えがあった。「万一江戸徳川幕府と京都の皇居との戦さがあれば、武器を捨てて皇居につけ」、と。(この言い伝えは単なる伝説ではなく、事実上家訓であったということが、慶喜自身によって後年明らかとなる。)
それはどの一族でも遠ざけられるいつもの在り様だった。加えて斉昭は危険な思想の持ち主として知られていた。家慶にとっては確かに彼は遠ざけるべき人物だった。ある日家慶は、護衛長の朝比奈正敏に内々に、斉昭について「危険人物だ」と話した。しかし普段は身内に、彼のことを「大した人物だ」と話し、傍系の一族では極めて重要人物との意をにおわせた。総じて、この二言は、典型的に家慶のどっちもつかずのやり方だった。徳川幕府の君主として、彼は斉昭と慶喜に対して、それぞれ思いを込めて違った見方を心掛けていた。そればかりではなく、次の逸話が示唆するように、彼は明らかに慶喜自身を婿養子するある考え方を持ち合わせていた。
将軍の側近で最も影響力に富む一人は、いわゆるお抱え秘書の侍従長だ。家慶の場合は、本郷がそれだった。彼の友である朝比奈正敏がいまもって禄高を上乗せされていないことを残念がり、ある日、本郷はそのことを家慶に恭しく進言した。
朝比奈の禄高が上げられるべき正当な理由があった。彼は、全ての将軍の統治期間に一度催される行事である将軍の鷹狩りの元締めをずっと務めていた。この役職によって500石の禄高上乗せが伝統的に行われていた。が、朝比奈にはそんな禄高上乗せの話は聞かされていなかった。そうではあれ、家慶は本郷のとりなしをこう言って退けた。「その必要はないだろう。それは、いずれにしても、朝比奈がお前と同じ地位に上る前のことだから」と。
この言葉は朝比奈にとってのみならず、一橋慶喜にとってもよからぬことだった。慶喜が一橋家に婿養子したとき、朝比奈は事がうまくはかどるように労をいとわなかった。いまや慶喜が将軍になるからには、朝比奈は間違いなく将軍家の官僚で最上位たる侍従長になろう。それが家慶の言葉の含みで、禄高上乗せが差し迫った問題ではなかったのだ。明らかに。家慶は慶喜の輝ける将軍を見通していた。
将軍は慶喜に跡を継がせることを内々でもらしていたと、いち早く城内でうわさが広がった。城仕え上位に坊主(僧侶)と呼ばれる者が数人いて、彼らは豪華な僧侶姿で、食卓でお茶の番をするとかの多様な雑事をこなしていた。彼らはまた、しばしば参勤交代で江戸在住の大名宅に出向き、誰彼となく、江戸城内の噂を広めた。これによって得た彼らの給金はすこぶるお役にかなったものであった。
〝僧侶たち〟が噂を広めたために、家慶がささやいた言葉は時を経ずすべての大名の知るところとなった。瞬く間に一橋慶喜の名は、10代の若者にしては、江戸の巨大な人物となった。これも人の運命。
間もなく一橋邸は連日各層の訪れるところとなった。大名、上級官僚、上位を狙っている高名の旗本。玄関に並んだ履物の列が絶えざる訪問者が行列をなしている何よりの証拠だった。最初は、斉昭の子息に対する期待が種として蒔かれ、それがどんどん広がって、江戸全体に行き渡っていた。
しかし注目の的の慶喜はまだ一介の少年で、一番の楽しみは肉体訓練だった。ある日家臣と品川海岸へ行ったとき、漁師が網を投げているのを遠くで見た。「あれをやってみたい」、彼はそう言い張った。とどのつまりが、漁師の小舟に乗り込み、やむなくそうせざるを得ない漁師の手ほどきで網を投げた。見た目よりも大変だった。網は空中で絡まり、どうしようもなくもつれたままで海に落ちた。
漁師は苦笑いしながら、「お前さんのは、魚を怖がらせるだけだよ」と言い、彼が今評判の一橋家御曹司だとは夢にも思わなかった。「網は放り投げて、海にピシャっと落ちる前に大きく広がってなけりゃだめだよ。このようにな。お前さんのは石ころがドブンと落ちていくようなもんだよ。素人なんだから無理だよ。慣れるのに3年はかかる」、そう言い捨てた。
「3年も?」、慶喜は言葉を返し、網代を支払って、自邸に運び、庭で稽古するようにした。漁師のやり方で1ヶ月も繰り返すと、網が空中に舞い上がり、緩やかに海面に落下する微妙なやり方を体得していた。「どうだ。漁師は3年かかると言ったが、1ヶ月でやったぞ」。彼はそう自慢した。
そんなことで、生涯を通じての特性となりそうな頑固・頑強は、年少の頃に芽生えていた。網投げ自体がそんな家柄の者にこんなことができるという意外な一面ではあるが、それが普段の暮らしの男たちによってしかかなえられないような技を、難なく習得できたこの若者の素早さと腕前を、ないがしろにすることはできない。慶喜はただの若者ではなかった。
水戸派の学者で斉昭の最側近である藤田東湖はその性格を見抜いていた。内心慶喜がまれなる才能を授かっていることに気づき、彼のお守りが怖くなり、江戸の水戸屋敷重臣の高橋多一郎に次のような注意を促す手紙をしたためた。
彼の常人ならぬ気力・迅速は、たやすく自身に害をもたらすかもしれません。彼の卓越さは他の者たちを変に刺激して謀反を起こさせ、思いもよらぬときに彼を貶めかねません。彼にこう言ってほしいです。腕前の良さを他人に見せないように、そして外見上はおとなしく従順であれ、と。
理解と経験に十分裏付けられて広がる風評ほど怖いものはない、と彼は言った。
同じ頃、将軍主治医の伊東宗益は、斉昭に近しいものに親書を送った。伊東もまた、非公式には水戸のあてがい扶持で、そのお返しに彼は進んで幕府内の内緒ごとをもらした。水戸のみならず、全ての藩は、徳川一族と将軍家の内幕で何が起こっているかをじっと見守る手を使っていた。
宗益からの親書の内容は、将軍家慶の相続人である家定に対する見立てに比べて、極めて常識外れだった。事実、家慶が皇女楽宮と16歳で結婚してから40年経ち、家慶は奥方と側女たちとの間で合わせて23人の子供を設けていた。そのほとんどが幼少時に死去したから、4番目の子である家定は唯一の生き残りだった。相続人として家定は最上位2番目に位しており、いまや25歳。しかし、彼の健康は非常に芳しくなかった。親書は、家定が、〝極めて病弱な体質〟だと指摘していた。控えめに加えるところによると、〝賢いとは到底言えない〟と。言葉を変えると、彼の知力は標準以下だとして、次のように続けている。
風邪を召されて介護を要するのに、周りにあまりに大勢の側女が侍り、彼は度を失い容態をさらに悪くしています。それもあって、なじみの一人の側女が常に彼の面倒を見ています。そんな女性への関心のなさを見ても、彼は子供を設けられそうにありません。
ということで、主治医によれば、家定は女性に何の興味も示さず、子を設ける力はなかった。しかしそれから宗益は強い政治的観点に立って見守り続けた。この子息のひ弱な精神力ゆえに、幕臣は、明らかに父の将軍よりはるかに御しやすしとみていると。
明らかに城の医師は一橋慶喜への気遣いもあって、こうした状況を詳細つまびらかにした。慶喜が子のいない家定に養子縁組するようになれば、彼は将軍への順位が2番目になる。
しかし事はそんなに簡単ではなかった。水戸に対する憎悪は幕府の伝統であり、加えて、幕臣や城勤めの女たちもまた、彼らの言うことをわがことのように従順に考え実行する将軍を好んだ。それは理の当然だったから、慶喜が次の将軍になるチャンスを生かせるかどうかの保証は何もなかった。
一人だけ、上野の将軍家寺院の遠慮会釈のない僧侶義道は、慶喜の違った将来を予言した。生来学者肌にして真の修行僧で、唯一の欠点は軽率な発言、と言われる義道は、偉大な指導者とともに学問にはげみ、成人前から重要寺院の長への道を歩むとの評判しきりだった。しかしながら、言いたいことを言い、他の者の無分別をからかい、厳しい非難を浴びせ、他の僧たちがやり返すまで、時と処をわきまえず批判を続け、とうとう彼は小さな寺に閉じ込められることになった。
ある日義道は、慶喜が寺で念仏を唱えているのを眺め、「あの男、わしと同じ人相じゃ!」、とつぶやいた。彼は男性の性格を顔かたちから読み取る趣味があった。慶喜に対する彼の見立ては、王様や大将のタイプではないが、どこか出来のいい役人といったところだった。言葉を換えれば、彼は豊臣秀吉や徳川家康のような国家統一をなした日本史の巨人の偉大さは持ち合わせていないだろうが、よく気の付く給仕のようでもない。要するに偉大な精神力を有するが、指導者の人相ではない、と(こんな予言を口にする厚かましさゆえに、義道は自分が遠い田舎の寺に追放されていたのだ、と認める)。
慶喜も自身、右腕にふさわしい人物を必要としていた。斉昭は侍従長である忠臣藤田東湖を呼んで、息子の側近にふさわしい教養のある確固とした旗本を推薦するよう求めた。東湖の答えは、平岡円四郎。将軍の臣下で、文句なしの高潔の士だった。
平岡は、貧窮の武家岡本の四男として生まれた、婿養子だった。彼は一風変わった若者で、学問には優れているがちょっとしたことによくこだわった。行儀不作法で、社交性に欠けていた。上司宅でも、お辞儀さえ嫌った。一橋慶喜の付け人になるよう話があったとき、彼は出世の当てもない下級の職にとどまっていた。一橋家に仕えるとすれば、慶喜が将軍になれば、目もくらむような頂上に上りつめることになろう。この仕事、途方もないいい話に見えたが、彼はこの場では、その任にあらずと断った。平岡の辞退で少し周囲がざわついた。この男の正直さに惚れ、斉昭は自ら表に出て、彼に受け入れるよう説得した。
正規の俸給に加えて、平岡は特別手当を少々与えられ、10代の慶喜の付け人になった。彼の仕事の一つはご飯の給仕。ぎこちなく、彼はお櫃を引き寄せ、しゃもじを手にもってご飯を茶碗に盛る。しかし思ったとおりにはいかず、いつもきまって大部分を畳にこぼした。
「平岡、おかしいぞ。ご飯の盛り方知らんのか?}
慶喜は5才年上の付け人を哀れんだ。お櫃を平岡から取り上げ、しゃもじと茶碗を自分で持って、どんなやり方でするかをきちんと示した。どっちがどっちか、判別不可能だった。
平岡はしくじったことで冷や汗をかいた。同時に彼は慶喜の仕草を見て恐れ入った。慶喜以外にはどの大名もご飯の盛り方の謎を気軽に付け人に教えるなどありえなかったろう。慶喜は多才に恵まれ、見たところ彼に不可能はあり得なかった。
よく似たもう一つの出来事は、最近付け人に昇進した渡会良蔵のことだ。彼は同様に田舎侍で、新しい環境に全く不慣れだった。慶喜が兄弟たちと弓矢の勝負を行ったとき、良蔵は落ちた矢を拾い集めるよう命じられた。が悲しいかな、彼はそのやり方を知らなかった。武器はいずれも戦場で使うのと違って小さいもので、弓は2.5フィート、矢は1フット足らず。的は45フィート先だった。弓矢の勝負は本来皇居の遊びで、決まったやり方があった。渡会が途方に暮れているのを知り、慶喜は下りてきて、矢の拾い方を何度も自ら示した。「よく見ていなさい」と彼は言って、付け人にやり方を自信に満ちて指導した。
慶喜の前頭部を剃り、髪を侍型(月代)にするのが鵜飼勝三郎の仕事だった。しかし彼は腕前の悪い床師で、常に慶喜に傷を負わせた。慶喜は怒りに度を失わず、彼にどのようにやればいいか見せてやると言い、床師を前に座らせ、彼の前頭部をうまく剃った。位の高いものが剃刀を使うなんて決して許されることではなかったが、それにしては彼の仕草は不思議だった。何故か、見事な出来栄え。鵜飼は、訳が分からなくなると同時に敬意満面になった。実に、僧侶義道は正しかった。慶喜は、やろうとすれば、見事な家臣または付け人になっていただろう。あるいは、もし商家の子として生まれていたなら、そんなことで、立派な商売をなしていただろう。
一橋家に来てからの彼の毎日は学ぶことで手いっぱいだ。全てがお仕着せで、9教科あった。書道、漢語、日本語、詩歌、乗馬、弓道、武道、槍投げ、馬上弓道。どの教科も一人前以上だが、そこまでだった。性格的に、慶喜は教わることは得手でなく、知識も実技も我流で習得することを好んだ。結果的に、彼はどの教科にも夢中にならなかった。藤田東湖が確信したのは、その個性は事実上偉大さの兆候だった。後に、慶喜の敵でさえ、彼を家康御大の申し子であるかのように見なすことになる。東湖がそこまで思い至ったかは知る由もないが。
将軍家慶は最側近でさえおかしいと思うほど、慶喜を溺愛した。彼は儒教信奉者の優しさと威厳を持ち合わせたが、統治者としては生来巧妙で疑い深く、とくに斉昭には用心深かった。だから慶喜への思いは、統治者としてではありえないはずだった。それより、このたくましい若者を内心快く思っていたようだ。出来の悪い自らの子家定に不満足で、全く愛することができず、それがかなわぬ親としての願望を、打てば響く慶喜で満たそうとしたのかもしれない。
1853年1月、慶喜が15才のときある出来事があり、それが家慶の側近たちに、驚きの中で、将軍が明らかに慶喜をわが子息の後継者にするつもりだと納得させた。
将軍の年間特別行事に鷹狩りがあり、それが終わった後、彼は自らが仕留めた獲物を京都の天皇に献呈することになっていた。「今回は一橋慶喜を連れて行く」、家慶は慶喜の最側近たる朝比奈に突然そう申し渡した。いつもなら慣習的に将軍は跡継ぎたるものを同伴することになっているから、朝比奈は仰天した。このような場に慶喜を伴うということは、彼がこの若者を家定の後継にするのだと公言するに等しかった。
慶喜と親密につながっている朝比奈が内心喜んだ理由は、彼自身の運命が必然的に殿に寄り添って歩むだろうからだが、幕府内部ではどうなのだろう? 慶喜の幸運を蕾のうちに摘み取ってしまえと、反水戸派が残忍な反抗を仕掛けないだろうか? 朝比奈は危険を感じて、老中首座の阿部正弘に相談した。
一瞬、阿部の顔は臣下が関わる朗報にほころんだが、すぐに考え深げになり、遂には顔を横に振った。政治状況は慶喜にとって良いことばかりではないと彼は判断した。即座に朝比奈は阿部の考えを家慶に伝えた。「早すぎるか?」と将軍。この簡潔な助言が、時得たりと、この若者を子息の跡取りにしようとの将軍の明々白々な意図の再確認となった。この助言は、明らかに本件について彼の内心の思いにすっきりしたゴーサインとなった。斉昭はそれと聞き、大喜びした。
と言って、だれがその先を見通せるか? その数ヶ月後の1853年7月11日、家慶自身が病で去った。後継について何の公的な段取りのないままでだ。彼の付き添い医師伊東総益は当初ちょっとした熱射病だと見立てたが、その3日後将軍家慶はこの世の人でなくなった。
将軍の死は劇的なタイミングだった。数日前の7月8日、米国艦隊マシュー・ペリー提督が小艦隊を率いて江戸湾に入り込んで、幕府に開国を迫り、2世紀半に及ぶ鎖国を終結させるという最後通牒を突き付けていた。幕府も国全体も慌てふためいた。徳川時代最後の大激動が始まった。
ペリーの伝言はあからさまだった。「開国か、我々と一戦交えるかだ」。敵意に満ちた日本国民に対して西欧戦力がこれまで持ち続けた柔軟な外交姿勢を公然と非難して、ペリーは、日本のような鎖国と交渉を成立させるには礼儀など不要との信念だった。軍事力あるのみだと、彼は、場合によっては、千島列島占領を心していた。
ペリーの強硬姿勢は、彼が想像すらしていなかった強烈なショックを日本国民に与えた。国民の中には、どんなことがあろうと、国を守り野蛮人を追い払おうという決断に至った者もあった。しかし幕府内では、這いつくばると言った敗北主義的外交姿勢が盛り上がってきた。この2つの全く相反する考え方の摩擦・対立が徳川時代末期にして国を挙げての大騒動の中心を占め、この時代はあと15年しか持たなくなる。
ぺリーが一方で追い求めた通商条約については、日本の知識階級は、彼の勢いから、それを受け入れれば、降参するに等しいと見た。「戦わずしてなぜ降参するのか?」、と彼らは迫った。「最後まで戦おう。敗れたときのみ降参しよう」。 この考え方、孝明天皇指揮下の日本西部、及び水戸斉昭配下の東部を拠点にする全ての国粋主義者が持ち合わせていた。
いずれにしても、将軍家慶は、ペリーと黒船艦隊の圧力による騒乱の真っただ中で世を去った。この出来事をペリーに伝えるにあたり、幕府代表は将軍を〝大君〟と呼んだ。これは微妙な問題をはらむ。天皇が京都で王冠をいただいている以上、将軍を統治者とか君主とか呼ぶことはできず、また〝将軍〟という名前が、文字通り、政治権力のない単なる軍隊長を指す〝大元帥〟(generalissimo)と言い換えることもできない。この状況下で、代表の新語として、外国人全て、とくにフランス人が当初〝王冠大将〟(crowned
head)を意味して用いた名前を編み出さざるを得なかった。外国勢力が知りうる限り、日本の王冠大将〝大君〟は他界し、そしてその後継は精神的に無能だった。
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