本書の紹介 フランク・ギブニー (Frank Gibney)
マシュー・ペリー提督が米国〝黒船艦隊〟を率いて東京湾に乗り入れたときをもって、広く日本の〝開国〟と見なされた。世界の国々から鎖国をして2世紀半が過ぎ去り、この島国は要衝の港を海外諸国との貿易に開放するよう強いられていた。この時点が、事実上、日本の近代化へのスタートだった。ペリー提督の功績であることに疑いの余地はない。日本は過去に外国との小競り合いはあったが、この近代的な蒸気戦艦による軍事的脅威は恐怖をもたらすと同時に即効性があった。日本の権力者たちは西欧の卓越した技術を目の当たりにして恐れおののき、以前よその国だが中国皇帝の軍隊が西欧帝国主義を撃退しようとして逆に陥った大失態を繰り返したくなかった。
ペリー艦隊は開かずの門をこじ開けたというよりも、この国にもっと大変化をもたらした。この艦隊が日本の海域に乗り入れたとき、折しも日本は内乱のさなかにあった。国が近代化されるにつれ、その後の15年間は外国嫌いの愛国者と過激派の扇動者と西欧技術の熱烈な希求者がくんずほぐれつの大混乱となった。その大団円が1868年の徳川幕府崩壊だ。この事件が本書の核で、その中心人物たる徳川慶喜は、最高権力家系の最後の将軍だった。
17世紀初頭(1603年)以来、徳川幕府将軍が他国の王朝と同様にずっと日本国内で君臨していた。しかし19世紀中頃には、将軍職は経済破綻、不平不満の蔓延、幕府内部の手におえない家臣たちによる武力紛争、等に押し切られて既に弱体化していた。歴史に残る1868年の明治維新は、徳川幕府を転覆させ、17歳の年若い天皇を、政治・文化の革命ともいうべき波頭を指揮するために、隠蔽されていた京都御所から引っ張り出した。これによって、日本の類例なき独特の近代化が真顔で始まった。
徳川幕府はすぐさま消え去ったわけではない。討幕派の最後の勝利は、数年にわたる戦いと陰謀と強制的妥協の産物である。表立った勝者は薩摩と長州の先陣たちで、日本南西地方の二大反徳川藩だった。しかしその実、当時の江戸城に新政府を打ち立て、日本を否応なく近代化に導いたのは、この二藩及び他藩からの勇猛果敢な青年武士たちだった。
彼らのかくも速やかなる成功は、徳川慶喜の行動なしではあり得ない。慶喜は一年弱将軍の座にあったが、自身近代化志向で、革命グループの果敢な目標に理解を示していた。君主の地位を比較的穏便に明け渡せたのは、肝心かなめでの彼自らの降伏だった。
慶喜のあっけない君主としてのドラマとそうさせた環境を理解するには、彼の先祖である徳川家康までさかのぼり、家康が結び付けた政治・社会構造を検証しなければならない。ヨーロッパでの英国列島のように、日本列島はアジア大陸沿岸から離れており、島民はある種の島流し的状態だった。しかし、英国と違って日本は、少なくとも第2次世界大戦までは、侵略の憂き目にあっていない。日本人が近隣の中国・朝鮮から高度な文明を得たのは、英国がローマやフランスから得たのと概ね同じだが、日本はほぼ平穏無事にそれらを習得・適用した。一度だけ彼らはアジア大陸を攻め落とそうとした。江戸時代に移る前の安土桃山時代末期、豊臣秀吉による1598年の朝鮮侵攻で、失敗に終わった。
何世紀にも亘って天皇が奈良・京都の往時の都で君臨したが、年を経るとともに天皇制は徐々に政治権力を失った。でありながら、民の大祭司として神話や伝説に程よく包まれ、玉座を保持していた。しかし真の統治は戦闘力でかなえられるものであり、それが醸成された封建社会は、ヨーロッパの中世における英国やフランスに似た様相を呈した。そうした戦闘力を持つ一族の頭目が、文字通りには「野蛮人を制圧する大元帥」を意味する「征夷大将軍」の名をかざすようになった。ちょうどカロリング王朝時代のフランスにおける皇居護衛長たちのように、これらの将軍は彼ら一族の王朝を築き、こぞって王国での主権争いを目まぐるしく繰り返した。
15世紀初頭に足利将軍時代が崩落した後、150年近くに亘って残酷な戦乱が続き、拮抗する軍団が頂点を競った。読んで字のごとく「武士の時代」で、彼らの最大の美徳は殿への忠誠であり、殿たる者は、仏教の厳格派のみならず儒教の教義に根差した、ある種のスパルタ的純粋さを目指した。
17世紀が始まる手前に、これら殿たる首領の一人、徳川家康がどんぐりの背比べから抜きん出て頂点に達した。いくつかの点で英国初期のヘイスティングスの合戦に匹敵する有名な関ヶ原の合戦で、家康は最高統治者の座に就き、覚悟を秘めて征夷大将軍の名を継いだ。
かと言って、家康は単なる戦乱時の首領たちとは遠くかけ離れていた。如才ない政略家で、決定的勝利に伴い、彼は各藩を封建秩序化し、合戦時の味方には報い、敵は日本列島の遠方に締め出すといった類では、左右上下に多少の変化をもたらした。中国宋王朝の近代的儒教を深く取り入れ、四階級制度を形づくった。世にいう〝士農工商〟で、国民を武士、農民、職人、商人の上下関係に位置付けた。
徳川家が天下を取った頃には、主としてポルトガルとスペインから貿易商や宣教師が日本に住み着いていた。家康の理解では、その結果彼らの力で何千人もがキリスト教に改宗させられていた。日本は総じて銃器の製造等を習得した16世紀の西欧技術を称賛したが、徳川幕府は、貿易と改宗はヨーロッパ勢力の侵攻につながりかねないと恐れた。家康と直後の後継は、自国防御のために、海外とさらなる接触を禁じる厳しい鎖国制度を敷いた。
しかし徳川幕府の自国への貢献は、もてる武力ががっちり固めた国中に行き渡る平和だった。幕府の権威は全国にくまなく広がった。各藩大名たちは藩内では最高権力を有したが、将軍家に対する様々な忠誠に縛られた。そうした縛りは隠密等、国中に張り巡らされた網の目の監視下にあった。武士階級は、もはや戦う場がなく、様々な縦社会を牛耳った巨大武家組織をひたすら発展させた。150年にわたって、日本は将軍家の下で発展した。貿易、工芸は高度な飛躍を遂げ、儒教の階層制度では元々最下層の商人がどんどん裕福になり、武士よりも力を得てきた。一方武士の多くは、ほぼ与えられる給金のみで賄うその日暮らしだった。
19世紀初頭には、各藩はまるで落ち着きを失っていた。将軍家は、初代将軍家康が築いた封建経済の給金制度が、それにとって代わって勢いを増している貨幣経済にとてもついていけなくなった。関ヶ原の合戦で敗軍だった外様大名は、今度は力を得て、将軍家の我が世の春に復讐という怨念の花を育んできた。もう一方でも、学者や政治理論家は、国を治める権利は将軍ではなく天皇にあると、ますます声を大にして断言するようになった。
同時に、「西欧に学ぼう」という緩やかな流れが、外国人に制限区画内での居住を許していた長崎での、オランダ貿易で輸入された書物等を通じて、日本にじわっと染み入ってきた。
二つの流れがぶつかりあって争っていた。一方では、西欧の技術移入に多くの関心があった。しかしもう一方で、復活した天皇礼賛の強い支持者たちは、日本を侵略しようと企んでいそうな野蛮人どもを打ち負かす錦の御旗として、天皇の万世一系を金科玉条とした。19世紀中頃にペリー提督が軍艦を乗り入れたのは、このように複雑に絡まったクモの巣へだった。
事実、海外貿易の振興と燃料の石炭補給港確保のために日本に開港を迫るペリー提督の要求は、行き交う英国やロシアの小艦隊の後方支援も受けて、将軍家支配の日本を難しい状況に追いやった。もし将軍家が海外の圧力に屈しようものなら、日本の神聖な伝統を裏切ったとして糾弾され、京都で隠遁を余儀なくされている天皇に対する背信行為として非難を受けよう。逆に、もし幕府が海外圧力に抵抗すれば、全面戦争になって敗戦の憂き目を見る危険性をはらんでいる。あちこちで乗り入れた戦艦と海岸に据えられた砲台で既にくすぶっている小競り合いは、ヨーロッパや米国の優位性を誰の目にももっともらしく見せた。
徳川慶喜は1837年に江戸で生まれた。父は徳川斉昭で、反外国派の急先鋒だった。この頃徳川家には御三家があり、斉昭の父はその一翼だった。ペリー艦隊の乗り入れ後に勢いを増した外国の侵害は、各大名に自藩の兵器や指導者を西欧から受け入れるように促した。1860年代までに徳川家の権威は幕府内の諍いで極めて弱体化していた。何代かに亘って弱い将軍時代が続く間に、腹心たちは思い余って近代兵器らしきものを造るために西欧の指導者や材料をそれなりに取り入れようとした。が遅すぎた。大政奉還の1867年を前にして、各藩の部隊が京都に乱入した。風評では、それは天皇を防御するためで、先陣は西欧の技術を学び国家近代化を企む青年武士エリートの際立った一団だった。対立する怒号がとどろき、将軍家と各藩の団結や帝国主義を呼ばわった。
さて、徳川慶喜の出番。若くて元気はつらつ、意欲的。老中会議でこう薦められていた。まずは摂政職に就き、虚弱の家茂公の死後、将軍としてふるまうように、と。これは慶喜にとって魅力的な道筋とは言えなかった。1860年代には、もはや初代家康が築いた絶対権力は影も形もなくなっていた。国中をして民はざわつき変化を求めていた。各藩の幹部、とりわけ薩摩と長州は、将軍支配を丸ごとぶっ潰し、天皇による統治を復活させようと乗り出した。家茂の徳川幕府自体も考えは二つに分かれている。一方は将軍家系の保持だが、内心は近代化志向だった。天皇復活派との特段の諍いは起こさなかった。
家茂の幕府によるなあなあ政治は優柔不断を反映したものだった。最初は反抗する藩を制圧にかかったが、急場しのぎで失敗に終わった。事実1868年には、薩摩と長州勢力は皇居のある京の都を支配下に治めており、時ならずして江戸へ向かった。その間に二つの衝突があり、どちらも将軍側が完敗した。
慶喜は現実主義そのものだった。さらなる争いは内乱を引き起こし、国を破壊しかねないとの恐れで、彼は信頼する家臣の一人である勝海舟を現天皇軍との談判に出向かせた。そして1868年夏、江戸を引き払い徳川家先祖の故郷たる土地駿府(現・静岡県)に隠遁した。
この一連の流れは、30才で最高位を放棄するに至った徳川家最後の将軍となる人物を巻き込んだ、歴史絵巻さながらに事が運んだかに見せようとしている。もし彼が5年早く将軍を引き継いでいたら、どうだったか? 彼は近代化されたすべての勢力を京都御所ではなく江戸城に結集できただろうか? 即位前の彼は難題に挑み即断しうるに十分な能力のある人物と見えた。それは歴史の節目に置かれ、約束を果たせなかった他の権力者たちと同じだ。例えば、ロシア革命でのケレンスキーやフランス革命時のラファイエットのようにだ。なぜなら、慶喜は家臣の多くとは違い、独立国として生き残るためには、日本は近代化を、それも可及的速やかになさねばならないという、明快な考えを有していた。
とはいえ、歴史の厳然たるその時点で、彼が不可能な職責を受け継いだのだと結論付けなければならない。2世紀の道のりで、徳川家という彼の先祖が日本を完膚なきまでにした堅固な統治は、長きにわたってやり尽くされていた。法と秩序による意思決定を旨としてスタートした幕府政治は、お役所的なれ合いで終わりを告げていた。あまりに長期の権力集中で、幕府は儀礼のみを重んじる幕臣の巣窟と化し、えこひいき一辺倒で、利己主義ばかりになった。だから威厳ある統治は不可能に近かった。それを実行しようとした幕府大老の井伊直弼は近代化を進める一方で、外国人を撃退しようとした。彼はその企みで、1862年に暗殺された。慶喜は決断できたし成そうともしたが、もはやそれらを実行すべき武力に恵まれなかった。
彼は、歴史上、近代文化革命分子として記録されるに違いない50数人の青年志士幹部と相対していたのだ。明治維新は、薩摩の大久保利通や西郷隆盛、長州の伊藤博文や木戸孝允のように若くして異常なまでに先見の明ある策略家たちによって成し遂げられた。彼らは日本を近代国家に生まれ変わらせるために熟慮断行を旨とした。彼らは1850年代の外国撃退の合言葉であった尊王攘夷の名のもとで育ったのだが、日本を最良の姿で現世紀に先導できるよう見通しを立てた。それは、西欧武力との融和という昔掲げたスローガンを結集することによってだった。互いにぎすぎすしていた各藩大名を何とかまとめて、若き明治維新遂行者たちは近代国家の建国にまい進した。その過程で、彼らは徳川幕府体制が日本に残した成文による封建制度の古式蒼然たる不落の牙城を破壊しなければならなかった。
和文原書のあとがきで、著者・司馬遼太郎のコメントによると、徳川慶喜は、ほぼ同年で似た志の大久保をなんとうらやましがったことか。大久保は慶喜を敗北に追いやり、維新を謳歌した。慶喜はたとえいかなる英雄でないとしても、彼は過小評価すべきでない一つの成果を成している。徳川幕府の終焉。明治維新の1868年に、機智をもって、将軍による統治はもはや復活しないとした。居並ぶ家臣に休戦・服従の血判を押させ、彼は穏やかに京都の二条城を後にした。腹心たちは彼の撤退をよしとせず、数ヶ月間頑張りとおした。東北の会津藩は最後まで幕府に忠誠を誓い、数ヶ月に及ぶ激戦の末、維新軍隊に制圧された。会津は、まさに孤軍奮闘したのだ。
必然の運命に従って、慶喜は平和を喫緊の課題とした。彼と直属家臣は新天皇から特赦を受けたばかりでなく、その多くが明治政府に迎えられた。慶喜自身は穏やかな引退生活を送った。明治時代の新しいヨーロッパ式高貴な地位である皇太子に任命され、彼の住居で安らかに他界する1913年まで生を全うした。したがって世俗的には、彼は一方の優れた敵対者である大久保利通よりもはるかに運がよかった。大久保は最高の権力の座にあった1877年に東京で暗殺の悲運に見舞われたのだから。
司馬遼太郎が徳川慶喜についてのこの書で明らかにしていることは疑う余地のない事実で真実だ。なおもって、「最後の将軍」は、日本で出版されたとき、彼の他の大部の歴史物語と同様に、小説形式だった。もしこれが米国でなら、本書は、事実と虚構の差が分からなくなってしまっているように見える時代の歴史とみなされよう。日本人はこうした事柄に目を光らせすぎる。彼らの内心では、「最後の将軍」は小説であり続ける。司馬は小説家の描写手法をいくつか用いているからだ。しかし厳密に言って、それは時間的に隔たった出来事を誠実に描写しており、どんな場合にも安心して歴史と呼ぶことができる。
締めくくりとして、著者について少し話したい。司馬遼太郎は、2年前(1996年)に72才で他界したが、正しく日本の国民的作家として称賛された。彼は40数作品を世に出した。その執筆において、彼は優れたジャーナリストの資質と真の学者たる能力を兼ね備えていた。作品のほとんどが日本人の過ぎ越し歩みと密接に結びついている。「坂の上の雲」のような長編であろうと、「明治という国家」のような一般的エッセイであろうと、彼は一国家の歴史の縦糸・横糸を紡ぎ合わせることができた。彼をしのぐ者はいない。日本で、彼の名をいただいた書籍は事実上広範囲の読者層が保証されている。
小説家として、彼はほとんどの歴史学者よりもはるかに歴史を活写した。それでも彼はかなり乱用された日本語句を用いる国際人でもあった。文化人とのつながりも幅広かった。彼の知識は優しくも貪欲な好奇心でもって伝えられた。自国に対する彼の視点は、海外世界に対する広い知識の全反射プリズムを通してより明快だった。
司馬は、日本の近代史の転換点である明治維新と、そこに至った徳川幕府の嵐のような最後の数年に、とりわけ魅了された。日本の文化大革命とも云えるこのドラマを誰もさほどに思い出せないのではないか。意味ありげに、彼は1930年代から1940年代の軍国時代にほとんど触れていない。彼は太平洋戦争終了時は海軍士官見習いとして戦地に動員されていたが、彼は日本の〝大東亜〟戦争を残虐かつ悲劇的過ちとみなした。
私は司馬について一歩進んで知る立場を許された。他国や他文化の歴史・風習に関する彼の途方もない好奇心にただただ驚くばかりだった。
なおかつ、この並外れた男、世界でも偉大な知識人の一人。が、自国以外ではほぼ無名だった。彼は、川端や三島や大江といった小説家が得ている名声とは無縁そのものだった。彼の作品のほとんどが翻訳されていなかったことが理由の大半である。日本の歴史・文化での彼の目線が狭すぎたか。司馬の筆致は幾重にもとれる日本語ではごく一般的なやり方だが、それゆえ他言語に簡明に置き換えるには極めて難しすぎた。ありがたいことに、「最後の将軍」では、ジュリエット・カーペンター女史が、卓越した翻訳特技を駆使して、司馬流の散文体も内容も適切に伝えている。日本では、米国、(ここでは学者的でない〝世間の知的作家〟が、一方ではジャーナリストで、他方では教授であふれかえっているのだが、)その米国でよりもはるかに、司馬のような作家が一国社会の賢人として今も敬われている。司馬はまさにそんな人だった。
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