最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

11. 家茂の死
 舞台は江戸に戻って、将軍家茂はこの年(1864年)、18才になる。
 閣僚らから慶喜の勝利について聞き、「よくやった!」と声を上げ、喜色満面になった。家茂が自身で一橋公の戦績を誉めたとき、老中らはすぐに、慶喜が一重に家茂の指図の結果として功を奏したのだと納得した。
 ということで、彼らは一橋慶喜の戦績を割引勘定しようとした。彼の京都でのにわか人気沸騰は、江戸では老中たちによる評判を落とすだけだった。京都の幹部には、慶喜が今回の戦績と評判を利用して宮中を占拠し、西側の大名たちを幕府に敵対させるのではないかとの憶測は、とても信じがたいようだった。一方江戸では、そうした憶測は絶対に正しいと受け取られた。
 彼に反対する周辺の状況証拠に終わりはなかった。水戸はみんなそんなものだ。これは、将軍の家臣であれば、当然そう考えることだ。彼らは水戸を暴徒の邪論と陰謀の巣窟とみていたのだから。なぜって、彼らの共通認識では、水戸の隠された教義は事実上そうなる条項を秘めている、と。それで、最近の戦力をどう理解すればよいのか? 歴史書によれば、それは実際には性格の法則、つまりその輝かしい戦績が上司を震え上がらせる人物は、時を置かず、上司にとって代わろうとするだろう。さらに言えば、慶喜は家茂に代わって14代将軍になっていても不思議ではなかったのだ。

 京都から300マイル近く離れた江戸で、いったん疑いの種がまかれると、他のいろいろな疑いが芽生えて成長した。慶喜は事実書状を送って、この勝利を起点として逃げる長州勢を追いかけ、同盟部隊を長州領内に侵入させ、萩の城下町で決定的な勝利を得ねばならないと。しかしこれは慶喜自身の意見ではなく、薩摩上級藩士小松帯刀の主張だった。意見書はむしろ首都の現状を踏まえた報告形式だったが、幕閣たちの受け止め方は違った。
 「見たことか、今や(つら)二枚男、調子づいとる」、彼らはそう思った。彼は、これを江戸の反応を奮い立たせるべく利用するために、薩摩の意見としてずる賢く提示することで、西側全てを彼の統治下においてしまおうとの真の目論見を隠している。そんな思いで、彼らは親書を家茂に見せ、わかりやすく説明した。彼らは意識的に慶喜を中傷していなかった。彼らの発言が正しいとすれば、彼らは世にも最悪のマキアヴェリズム的陰謀家と信じる人物から無垢の家茂を守ろうとしていたのだ。
 彼らが家茂を愛したのは、家臣として期待する以上に手厚くしてくれる優しさを身で感じていたからだ。家茂に好意を抱けば抱くほど慶喜への憎悪がいや増しに増す。将軍の庭園茶会に給仕として仕える者たちの間でさえも、将軍にとって本当に恐ろしいのは長州でも薩摩でもなく、一橋慶喜だと(まこと)しやかに受け止められていた。大したことではないとしても、隠れた動機が彼の送るすべての書状に偏見こめて読み取られた。

 例えば蛤御門の変があって間もなく、慶喜は書状で、京都へ来て暴徒らへの対抗策を直に進めるよう願い、末尾にこう記した。本件、天皇から下々に至るまで、宮中の一致した意見である、と。幕閣はそんな事()に受けるわけにはいかないとし、慶喜に何か下心があるに違いないと踏んだ。彼らは家茂にこう進言した。その書状は宮中からの詔勅ではなく、おそらく慶喜独自の要望だ、と。返事は出されなかった。
 1865年の新年を迎え、年号が慶応元年に改まった。
 長州問題はますますこんがらがって来ている。一方では、暴徒たちは幕府との関係あるところで忠義・献身の大安売りをし、他方では明らかにいち早く戦闘の準備をしている。幕府が権威を取り戻す唯一の方法は攻撃だ。しかし各藩は出費ばかりがかさんでいるときに無意味な内戦を起こす気はない。さらに各藩とも長州の逆境に同情的で、幕府の動員要請に消極的だ。かつては同盟に熱烈だった薩摩までが、次なる同盟部隊行動はあり得ないと宣言した。薩摩幹部はこう言ったという。「戦闘同盟が結成されても、我々は戦力を派遣しない」、と。

 そんな中で、将軍家茂自身が出陣する必要があった。京都からはるか遠くで、江戸幕府の者たちが推量するところでは、大名たちはそこで勇み立つだろう、だった。
 慶喜は京都にいて、もっとよく理解していた。彼の結論は、「彼らは何もするはずがない」。しかし、江戸に対して彼は賢明にも自身の確信を何も言わなかった。それは、長州が関わっていることでは、彼が口を開けば、ただ単に彼への疑念を深めるだけだということをよく承知していたから。

 6月14日、家茂は京都へ入った。その後、彼は大坂へ行き、大坂城に留まった。この城は、長州をにらむ幕府の総本部になるところだった。しかし、幕府は戦闘費がなく、大名たちは同意しには来なかった。だから一人として兵士は派遣されずにその年は過ぎた。
 その間にある日、松平容保がたまたま表敬訪問すると、家茂はこう漏らした。「一橋公が幕府に謀反心を抱いていると聞いているが、本当かね?」
 こんな疑念を将軍は未だかつて漏らしたことはなかった。彼の言葉自体政的不祥事と云えた。容保は驚いて、声高に噂を否定し、慶喜の潔白な行動について幾つも幾つも事例を挙げた。しかも彼は単に慶喜のために弁解しているのではなかった。彼は心から慶喜が真に徳川家に対して忠実であると確信していた。
 彼の知るところでは、慶喜は頭脳明晰でもあるしずる賢さもある。慶喜は誰よりも思い付きが速いし、彼の行動パターンがすぐにばれるようなものではなかったし、お芝居が上手だったから、彼をどこかのいたずら者とみる者は少なかった。容保の説明を聞いて、家茂はこれまで慶喜を疑っていたことを恥ずかしく思い、顔を赤らめて前言を取り下げた。

 この面談の模様を聞き、慶喜は、優しい将軍が彼のことをどう思っているか、初めて知った。深いというよりも、彼は自身の欠点に深い至らなさと恥じらいを覚えた。彼の反応は、自身が徳川家の防壁として受けてきた仕付け、そしてまたその訓育が心身に及ぼした根深い弱みの跡形だった。
 ある程度において、大老板倉勝清は慶喜のその驚くべき弱点を理解したが、幕閣や事務方は彼を豪傑と見、巨人に特有の強く欲深い野望が規範になっていると想像した。そんなあらぬ想像が彼の評判を決定的に台無しにした。

 この頃、兵庫(現・神戸)の開港に関してある事件が起きて、将軍と幕府を隅に追い詰めた。西洋勢力は戦艦で押し寄せて開港を迫り、宮中は頑強に拒否していた。その板挟みになって、家茂は解決に向かって為すすべがなかった。遂に絶望の末、彼は側近一同を大坂城内の大広間に集め、辞任の意向を伝えた。「私はここで野蛮人鎮圧総司令官を辞任する。これから速やかに宮中に私の決心を伝える。一橋がここにきて後を継ぐことができよう」。彼は付き添いに辞任状を書かせた。このことが大坂、京都、江戸の幕府支持者に大打撃を与えることになった。様子を見ていたもの曰く、城内のみんなの気が狂ったようだった、と。
 これを漏れ聞いて、家茂は顔をしかめる一方で、同時に喜んでいるふりをした。この急報で、江戸城は大混乱になった。女性は廊下を泣いて渡り、一人は泣き叫んで、「もし水戸の息子が悪だくみをもって城に入るなら、もう生きていく価値などないわ」、と。そして歯を食いしばり、短剣を握って井戸に飛び込んだ女もいた。

 兵庫問題で将軍の辞任表明を驚きで受け止め、慶喜は宮中の摂政から下級に至るまですべてを招集し、いつもの力強い口調と巧妙さで議論を戦わし、遂にはその協定に対して天皇から懲罰を受けるという脅しを込め、この苦境を切り抜けた。彼は宮中幹部に対し、「私が言ったとおりにやった後宮中の了解が得られないならば、将軍を適切に補佐しなかったという罪に伏し、いまここで切腹する以外になすすべがなかろう。私が自死を選べば、部下たちは宮中に仇討しかねない。みんなはこんな状況に向かい合う覚悟はおありか? もしそうなら、どうぞお好きなようにしなさい」。
 そう言って彼は足を踏み鳴らして大広間を出ようとしたが、皇族たちは慌てて彼を引き止め、彼らの拒否を撤回し協定の受け入れを決定した。
 その後、慶喜は幕府内で自身が水戸者だとして評判の失墜がいかに深刻であるかを味わった。大奥内のどよめきを含め、江戸城での大騒ぎを、小石川の水戸邸からの書状で知った。たとえこうした状況によって彼が将軍になるチャンスを得たとしても、慶喜には実際問題、徳川家と幕府の舵を担うことはほとんど不可能と思えた。

 彼はまた現状に思いをいたし、疑念の渦中にいて、それでも幕府のために働き続けなければならないか、戸惑った。彼が憤慨すべき正当な理由があった。慶喜をよく知る原市之進をさえ驚かせたのは、彼が鬱積した憤懣を一言も漏らしていないということだ。唯一の感情の起伏はこの一言だった。彼は自分の存在自体が将軍の苦痛の種だと思ったとき、〝恐れおののき〟を感じた、と言う。原には信じがたいのだが、慶喜がこう口にしたのは本心を隠したのではなく、どうやら誠意の表れだった。彼はそれを〝恐れおののき〟にしてしまうことによって味わう空虚や不満を晴らす中で、何らかの喜びを引き出しているようにさえ見えた。
 原が言いうる限りでは、慶喜の素直な言い分を唯一説明できるのは、彼が受けた仕付けだった。大名教育を施され、多分それで彼はあのように自分に答えさせる心情の仕組みを作り上げていたのだろう。
 慶喜は海軍司令官の辞任を申し出た。しかし家茂はそれを保留した。次に彼は国の指南役の辞任を申し出たのだが、またしても拒否された。

 家茂は大坂に留まり続けた。年明けて1866年、依然として長州に部隊を派遣しない。懲罰隊要請の声が大きくなっているにも拘らずだ。
 7月直前に先遣隊が西に向かった。翌月幕府部隊は長州との領境で長州勢と戦闘になった。が、長州軍勢の方が上回り、幕府軍は敗退した。
 この時家茂の病は悪化の一途をたどっており、この敗退の報は大坂城の彼には知らされなかった。いつもながら虚弱で、8月初めには将軍は極めて危険な状態にあった。ますます悪くなり、付き添いの主治医は悪性脚気と診断した。病の状況は口封じされ、京都の慶喜でさえ知る由もなかった。

 慶喜が最初に知らされた報は、家茂が軽い疲労で床に就いた、と。将軍の病の本当のところを慶喜が知ったのは8月26日だった。そして、家茂がこの1週間食べものが喉を通らず、5日間ほど不眠だったと、引き続き明らかになる。痙攣(けいれん)と引き付けが治まらず、病は最悪になっていた。
 慶喜は仰天してすぐさま大坂へ行き、城で要望どおりすぐに病室に案内された。家茂は病床で疲れ切った様子だが、慶喜が心配していたよりも良好に見えた。慶喜の見舞いの言葉に答えて、あえて笑顔になり、聞き取りにくい声で少し話した。
 「つい最近までは床で座ることもできたのだが、今日はそれもできない。医者から詳しく聞いてほしい」、と異様な声で言う。京都はどうなんだ? 彼は重病に拘わらず、熱心に知りたがった。
 慶喜は感じ入って、彼を安心させようと努めた。「平穏無事、私が今ここ大坂にいることが何よりの証拠です。こちらの方がうまく采配できますから」。そう言いながら、慶喜は蒲団の(すそ)をゆっくり開けて、両手で家茂の(あし)をもんだ。むくんでいる。30分ほど揉み続けると、家茂はうつらうつらと寝入り、慶喜はそっと部屋を出た。その後彼は京都に戻ったが、翌晩家茂の容態が急に悪化し、息を引き取った。20才だった。遺書も遺言も残さなかった。

 しかし彼は後継者について指示を残していた。江戸を発つとき、付き添いたちに向き直ってこう言った。「私がもし戦場に出陣するようになれば、戦死も病死もしないという保証はない。もし何かあれば、田安亀之助を次の将軍にせよ」。亀之助は、徳川御三卿の当主である田安慶頼の子息だ。高齢の侍女滝山(たきやま)が将軍の指示を託され、家茂が江戸を発ってから、このことを家茂の妻和宮(かずのみや)に伝えた。大奥の侍女たちは、慶喜が選ばれなかったとして、大いに喜んだが、幕府はうろたえた。
 田安亀之助は2才になったばかりだ。そんな幼児が、長州との戦闘で敗退の知らせが次々と届いているこの難局を将軍職として切り抜け得るとは考えられない。
 ほかに選択肢のないことを認め、将軍職閣議は宮中と有力大名の了解のもとに、慶喜を将軍に推薦した。大老職の板倉勝清は、慶喜に受諾を勧めるべく京都へ急いだ。

 慶喜は断った。板倉は最善を尽くしたが、慶喜はすげなくこう言った。「無駄なことだ。私はそんな考えをいささかも持ち合わせない」。強烈な悪巧みを仕向ける集団に取り囲まれて、うまくいくはずがない、と慶喜はよくわかっている。「亀之助を次の将軍にしよう。私は喜んで後見役になる」、と言った。
 板倉はひるむことなく京都に留まり、連日慶喜を訪ね、頑強に譲らなかった。慶喜も考えは変わらず、遂に会うことを拒絶した。家茂の死はしばらく内密にされていたが、噂が広がった。将軍邸は空っぽだ、とだれもが言う。京都では商人の子供たちの間でさえ、それが当たり前の評判になっている。それでなお、慶喜は頑固に承諾を拒否した。
 「たとえ無駄とはいえ」、と彼は繰り返し言った。時が経つにつれて、この拒否自体が何らかの政治的磁気を帯びてくることもあろう、と十分に承知して。