最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

05. 殿中へ
 もう一つの四季が江戸を巡っている。井伊直弼が桜田門外で暗殺されてから1年、一橋慶喜の運命は毛ほども変わっていなかった。以前同様、お国に対する罪科(つみとが)で、一橋邸にずっと幽閉されていた。事実、幕府の新体制への転換は時間の問題だと言い広められてはいたが、安政の大獄で罰せられたどの貴族も大名も臣下も解放されていなかった。

 「もう少しの辛抱です」、若い側近たちは彼を励ました。
 「それはどういうこと?」、彼はいつに変わらない。
 「なぜって、恩赦ですよ。そして殿は晴れて自由の身になります」。

 「そんな馬鹿な」、彼はいらだつ。慶喜は変わっている。そんな場では必ず顔をしかめて言った。「恩赦などあるはずがない」。許されるとは思っていないのだ。粛清の犠牲者は牢屋監禁または自宅謹慎を強いられ続けるだろう。慶喜の取り巻きは当初は驚いたが、徐々に彼の思考過程を理解するようになった。第一、彼は理屈を重んじた。井伊大老の暗殺を単純にこれまでどおりの在任釈放に結びつける理由付けは法を踏みにじることであり、幕府の規範を台無しにし、ひいては幕藩体制の崩壊につながりかねない。

 慶喜が一風変わっている下支えは、理屈一辺倒であるのみならず、彼を十分に平穏・安寧であらせている日々の暮らしそのものだった。
 「なんと退屈な毎日をお過ごし」、心あるものなら同情を込めてそう言うだろうが、そんな哀れみは全く的外れだった。慶喜は長くぼんやりし続けられなかった。多面人物として、彼は長きにわたって常に忙しい日々を過ごした。絵を描く、馬の生態観察、オランダの女性解剖書との比較で殿中の女性を秘密裡に精査、そして時にはおもちゃ飛行機を持ち出して建物のぐるりを飛ばし、のこぎりで修理する、といったこと。ただし、彼の大好きな運動であるポロができないことが最大の痛手だった。

 彼の多才多芸がどこでも噂され、側近もまたこうささやきあった。偉大なる家康公に似ている、と。
 言い伝えによれば、徳川家始祖は、美術不得手と言われる一方で、医療についてはとても門外漢とは思えない知識の持ち主で、剣術・馬術・タカ狩りといった体力には秀でていた。しかしその家康でさえ建物の修繕は無理だった。それに対して慶喜がカンナで削った板は例えようもないほど薄く、表面は鏡のように輝いた。

 1862年5月23日に起きた井伊大老暗殺事件から丸々2年経って、慶喜は客に会ったり文通することが許された。しかし彼はこれまで通り外部との接触を避け、隠遁を続けた。この自粛も彼の見栄えをもう一つよくした。京都の皇族や日本南西の最大二藩である薩摩や長州の忠臣たちは全て、この噂をお見通しだった。彼の名を口にしない者はいなかった。彼を次代の救国者とあげつらう者たちまでいた。松平春嶽、山内容堂、伊達宗城といった彼を支援する改革派三大名もまた彼を称賛してやまなかった。大ぼら好きの容堂は厳粛にこう語った。「彼が一歩踏み出さなければ、徳川幕府はどうなるやら?!」

 かといって、容堂の慶喜に対する知識は春嶽の話を超えるものではなかった。慶喜は公的な場に全然出ていなかったから、政治的貢献度はゼロで、だから彼の立ち居振る舞いからその政治的実力を推し量りようがなかった。要するに、この人物の評価は、現実とは関係のない噂のみが先行して、急速に広がっていた。

 米国とのハリス条約とその後他国と結んだ条約により、1859年の沿岸各地開港に従って、日を追って増大する外国人の日本入国は排他主義者を嫌が応にも挑発し、攘夷(野蛮人追放)を激高させた。忠誠を励む武士の間にも慶喜賛美が信仰とも云える熱情をもたらした。彼らは誓う。慶喜殿が一旦権力を持てば、全ての外国人の駆逐を迫り、不法滞在者を追放して神の国なる日本の純粋性を取り戻すだろう、と。しかし幕閣や城内では、反慶喜派の勢いが上回り、その結果彼は将軍の敵として遠ざけられた。慶喜にとってのこの不運について、愛国者たちはいら立ちを抑えつつも、国にとっての災厄と見做した。

 京都の宮中ではこんな意見が取りざたされていた。慶喜が権力の座に就く唯一の道は天皇が幕府に圧力をかけることだ、と。そしてついに1862年6月27日、宮中から使者が江戸に向かった。小原重富、老皇族で、ガリガリの反外国派だ。若き薩摩藩主の父島津久光が小原の任務を力強く下支えすべく、武装完備の大隊を伴って随行した。その実こうしたことは、幕府に圧力をかけて、外国人を追放し、将軍職の一切の行動を二人の人物にゆだねることだった。一橋慶喜と松平春嶽に。慶喜を将軍の後見役に、春嶽を老中の重要閣僚にして。

 将軍家にとっては、かような話はもっての外だった。宮中が幕府の最重要人事に介入することほど気味悪い予兆はなかろう。さらに悪い事には、その圧力が薩摩藩の反将軍派によってなされたものだった。同藩は外様で、初期の藩主はかつて徳川家にとって強敵だった。これに屈すれば、権力失墜で、考えうる限り絶命に値する威信喪失だ。

 要求が全く不当であることのほかに、幕閣は一橋慶喜に対して厳しく異議を唱えた。水戸の〝火種〟たる斉昭の子息で、幕府は斉昭に長く特別の嫌悪感を抱いていた。そのとおりで、斉昭は病で、井伊大老暗殺直後の1860年に死去したが、その子息が徳川家に対して父と違った考え方を持つと誰が言おうか? 世に知られる慶喜の成熟と能力は、それだけで恐怖をあおるに十分だった。

 もし一橋が将軍の後見役になれば、徳川幕府の終わりとなろう。この噂が江戸城内で幕閣から給仕や女中に至るまで、全てに狂ったように一致していた。慶喜の話し上手、勇敢さ、機転は、若年の将軍や老中たちを圧倒するだろう。彼は薩摩・長州の志士たちにうまく利用されるに違いない。そうなれば徳川家最側近の身内である譜代大名は黙っていられず、徳川家を守るために戦いを挑むことになろう。この内戦で世の終わりだ。一橋はその結果頂点を極め、自身将軍になるだろう。噂ではあるが、小原・島津部隊でさえ慶喜のクーデター精神の産物なのだ。

 そしてついに幕府は宮中の意思に従った。この成り行きを漏れ聞き、慶喜は側近にそっと話した。「幕府崩壊の始まりだね」と。致命的な弱点が露呈されていたのだ。これからは頑丈な軍隊を後ろ盾にして、天皇のご下命を外様が仰ぐとき、幕府はもはや奈落の底だろう。「幕府は地に落ちた」と慶喜は嘆いた。

 時を経ず、文書が慶喜に届いた。「天皇のご意思により、貴殿を将軍の後見役に命じる」。幕府体制では未だ前例のない天皇のご下命を表すかような文書は、疑いもなく将軍の意思と正反対であることを意味した。老中たちは明らかに怒りを隠さなかった。同様の文書で、松平春嶽も大老並みの職に命じられた。

 将軍の後見役と違って、大老並みの職はこれまでにない地位だった。春嶽を幕府統括の地位に就け、老中たちよりも高い地位とみなされるように。彼は紛れもなく大老並みの地位を与えられたはずだった。しかし慶喜がご下命に従った一方、春嶽は受け入れなかった。彼の身内は将軍家への侮辱だとして等しく反対だった。始祖家康の頃以来これまで、徳川家の下支えは譜代大名だった。彼らは商家で云えば、番頭たちだ。しかし格式ある松平家の藩主は徳川家本流の頭目で、井伊や本田や酒井大名のような〝番頭〟ではなかった。春嶽がその地位を受け入れれば、それは雑務主事といった降格とみなされよう。春嶽は繰り返しご下命を突き返したが、遂にこれを受け入れざるを得なかった。

 幕府新体制は世の人々を歓喜させた。この二人が幕政で最高権力を持つ限り、日本は、隣国の中国が陥ったような海外勢力による崩壊の運命から何とか逃れられよう、と。近代日本の最大指導者の一人と云われる大久保一蔵(利通)のような分別ある人物でさえ、この報に接していささか口が軽くなった。「私の喜びは頂点に達し、夢を見ているのではないかと心配になるくらいだ」と。それは彼だけではなかった。安堵と興奮の波は全国を覆った。

 慶喜は少年の将軍家茂に会うべく江戸城に入り、しきたりに従って()を低くした。彼の言葉はその場でずっと極めて公式的に語られ、家茂は家茂で、徳川家トップにふさわしい厳格な公的儀礼での親しさを失わなかった。彼はまだ16歳の少年で凛々(りり)しく、欠点といっていいくらいに控えめだった。彼がいかにして京都の宮中に対する尊崇の念を抱いたかは謎だった。家康は実力で自身を日本最高の権力者とし、法令をして皇族を〝学問と詩歌の世界〟に閉じ込めた。後に、儒学者で1720年代に将軍指南役の新井白石が天皇を他のどこでもない京都一帯の山城地方における神聖なる最高位と宣して、将軍職の最高優位性の理論的根拠を披歴することになる。ペリー提督の到着と時期を同じくして、将軍の権威は天皇から授けられたのだとする水戸理論が、南西日本の外様大名の間からもたらされ、巷にはびこることになった。東日本の大名たちはまだこれについていかなかったが、家茂は、多分若さの故もあろう、つくろうことなく新しい考え方の流れに同化しているように見えた。

 人を信頼し疑うことのない性格であることに加えて、家茂は人間関係に偏りがなかった。幕府家臣や大奥の女たちは一様に彼の優しい、穢れのない気質を貴び、これほど仕え易い殿は絶対にいないと言いあった。一人だけ、家茂が偏見をもって付き合ったのは一橋慶喜で、常々彼には気をつけろと教えられていた。〝慶喜には絶対に油断しなさんな〟、そういつも注意されていたから、当然ながら慶喜を人間の面をかぶった野獣かなにかと見做した。しかし、変人の父と違って、彼は感情を完全に正当な行動の裏に隠すことができた。

 それは慶喜を見たこともない人物として疑いのまなざしを向けている若き将軍家茂だけではなかった。慶喜が将軍後見役になったすぐ後で、松平春嶽は彼についてよく知っていないと自覚した。将軍継承議論が始まって以来、春嶽は慶喜に同調して熱狂的に支持していたが、井伊直弼の手で投獄されるほどの彼もショックを受けた。

 その秋、幕府は海外政策をきっぱりと決めなければならなかった。西欧勢力の軍事圧力下で井伊直弼が締結した通商条約を忠実に踏襲するか、〝野蛮人を駆逐せよ〟との天皇からの至上命令にまで行きついた現状の実施、つまり一方的に条約を廃棄して臆面もなく戦争に突入するか、どちらも容易には受け入れがたかった。どちらを取るか、無理難題だった。前者に従って国際商取引に国を開放すれば、幕府を国際社会に従順にし、天皇に反旗を翻し、全ての排外派忠臣勢力からの一斉攻撃にさらされることになろう。後者に従えば、間違いなく怒り狂った海外勢力による軍事攻撃を受けて国家四分五裂の憂き目にあい、とどのつまりは植民地になり果てるだろう。

 松平春嶽は民衆の意見に重きを置き、国内の分裂を避けるために、条約を廃棄して外国勢を駆逐するという後者の考え方に(くみ)した。他の老中の意見を丁重にうかがうよう任されたのは、将軍のお抱え執事を務める大久保忠寛だった。大久保は慶喜に会って将軍の後見役としての立ち位置を尋ねる前に彼らの意見をこまめにメモしていた。

 彼は慶喜が春嶽と考えを共にすることに何の疑いも持たなかった。つまるところ、慶喜は生まれからして水戸藩であり、天皇を敬い野蛮人撃退という〝尊王攘夷〟の過激な排外思想に凝り固まった一族の出だ。もっと云えば、彼は斉昭の子息で、春嶽とは考え方を同じくする同藩の全ての忠臣の希望の星なのだ。そんな人物が排外一辺倒という春嶽の考えに仮にも逆らうことがありえようか?

 にも拘らず大久保忠寛が平伏して慶喜の言葉を待つと、頭上をかすめた最初の声はこうだった。
「だから春嶽もまた阿呆(あほう)なのだ」
 大久保は息を詰まらせ、
「何とおっしゃられた?」
「外国人駆逐なんてできっこない」
 大久保は自身の耳を信じられない。慶喜は開国論を適切で熱意に満ちた言葉で発した。

 「世界中の国々が不偏の正義のもとに友情のきずなを謳歌している現実の今ここで、日本だけが旧来の鎖国を続けるとはもってのほかだ。そう、排外主義者の井伊直弼自身、天皇の承認を待たずに自らの権威で条約に調印するよう迫ったアメリカの脅しにおびえた。彼が不適切な行動を取ったことに疑問の余地はない。しかしその行動の不適切さは純粋に国内の問題で、いかなる他国にも関係のないことだった。いまこうした状況下で条約を破棄すれば、日本に対する世界中の非難を助長する裏切り行為となろう。戦争は避けられまい。仮に我々が勝利を得たとしても、名誉なことではない。将来的には物笑いの種となろう。そしてもし負ければ、もっとひどい恥辱となろう。そんなこと本当に承知で、春嶽はまだこの方向に固執するのか?」

 驚いて大久保はこう答える。「この考え方は春嶽殿の真の意思ではありません。内心、彼もまた開国を支持しているのでしょう」、と。しかし宮中や実力外様大名や民衆の意見に後押しされた反論に対抗して、春嶽は、今や魔女たちが外国人駆逐を叫び、反対派を黙らせ、世論をそのように集約している間は、このままでいて騒がない方が得策と考えたのでしょう、と彼は説明した。そう言った後、彼が慶喜に請け合ったのは、春嶽が時機到来と、新しい考え方を次々と公けにすることになろう、と。
「それは猫だましだ」、慶喜は即座に反応した。なすべきことは天皇と支持者たちを論破し、納得させ、啓蒙することだ、と。

 慶喜の意見を大久保から伝え聞いて、松平春嶽はしばし沈思黙考した。いずれにしても慶喜が排外主義者ではないと分かり、驚いた。同時にアホウ呼ばわりされて激高した。彼はこれまで実力において世の称賛を受け、諸問題への対処においても敬われ、側近は彼の意思を高く評価していた。彼はそんなことに何の自負もなかったが、アホウ呼ばわりされるとは! 「多分のことだが、つまるところ慶喜は将軍には適していない。政治的考え方がどうであれだ」、春嶽はこの若者に対する評価を改めようと、深く考え込んだ。

 それとは別に、慶喜は春嶽が受けた苦痛に思いやることを怠った。他の有識者と同様に、彼は、外国人駆逐という古くも愚かな衝動を超えており、海外に門戸を開くことは避けられないことを知っていた。しかしもし彼が表面だって外国人駆逐派として振舞わなければ、宮中も一般世論も黙っていないだろう。彼の排外主義は純粋にうわべだけで、それは究極的に開国に向けての手段だった。

 春嶽は城に直行し、慶喜の部屋を訪れ、自身の考え方を直言した。慶喜は彼のそんな二枚舌が引き起こす痛ましい結果を予想した。最後に春嶽が折れた。
 「わかりました。殿の考えに従いましょう」と彼は言い、開国をよしとすることにその時その場で忠誠を切り替えた。しかし現実には、幕府の事実上の大老として、急を要する実際問題に直面している。事実、二人の使者が京都から江戸を目指しており、外国人を日本本土から駆逐せよとの勅命を携えていた。一人は三条実美(さねとみ)、もう一人は姉小路公知(あねがこうじきんとも)で、両者とも外国との友好に絶対反対の急先鋒だった。もし二人が携えた勅命に応じなければ、幕府と春嶽はともに天皇への服従背反という罪を犯すことになろう。「私には到底手におえない」と、彼は口をついた。

 慶喜は、心配しなさんな、となだめ、過激派が何と言おうと、耳を貸さなければよいとした。唯一重要なのは、孝明天皇ご自身がどう考えているかだ。為すべきことは、天皇を目覚めさせ、目を開かせること。「私は京都へ行って、皆に話し、天皇に直言する」、慶喜は確信に満ちてそう言った。しかし彼の言い分は事実上不可能。外国人駆逐という天皇からの緊急勅命を携えた使者がすでに江戸に向かっており、そんなときに慶喜がこの使者に天皇勅命に背反する書状を持たせて帰らせるとしたら、即刻混乱を巻き起こすことになろう。京都行は黙って取りやめた。

 しかしながら春嶽は、勅使よりも民衆の意見を恐れていた。だから慶喜との話し合いにかかわらず、即座に排他的立場に戻り、使者が到着すれば、平伏して勅命を受け入れ、幕府をその方向にかじ取りすることにした。話し合いでの彼の言葉はうわっぺらで単なるカムフラージュだったのだ。

 「春嶽は弱虫だ」、慶喜はある驚きをもってそう思った。別に異議を唱えることなく、彼は幕府の公式見解に従った。その後時ならず、春嶽との雑談で、慶喜は何か思い出したようだ。
「春嶽、これわかる? 先日のことだよ」
「それが何か?」
「あの時話した私の開国論ですよ。私は貴殿がそれを是としたと疑わなかったが、その後貴殿は誰にも話していない」
 慶喜の言葉に、春嶽の背筋が凍った。

 水戸の出である慶喜だから、全ての民衆は彼が外国人駆逐に突き進んでくれるとの大いなる期待を抱いていたので、だから将軍後見役としての彼がそう言えば、幕府の威信回復を助長ことになるはずだった。慶喜が排外思想の持ち主ではなく、逆に断固たる開国派だということが明らかとなった今、もはやどうしようもない。
 「わかってますよ」、と春嶽。
 事実もう一人の賢者で、長年慶喜の支持者である山内容堂は、既に春嶽にこう注意していた。状況がどうなろうと、全ての重大事における慶喜の真の考え方がどこのだれにであろうと絶対に漏れてはならない、と。
 彼は慶喜に対してもこう注意を呼び掛けていた。
 「使者到着の朝は、貴殿が何をなされようと、彼らに開国に関して何も話してはいけません。彼らは二人とも若輩で頑固一徹ですから、大いに憤慨して、すぐさま京都へとんぼ返りすることになるでしょう」

 使者の後ろ盾が反幕府で海外駆逐派の強力な長州藩であることは誰もが知るところだ。使者が急遽とんぼ返りして慶喜の裏切り容疑を天皇に告げれば、長州勢は狼煙(のろし)を上げ、天皇と皇族の了解を得て、幕府転覆の勅令を授かる絶好の機運に恵まれるだろう。聞きながら、慶喜は「わかった」とうなずき、容堂に注意の呼びかけを感謝していた。

  とどのつまり、幕府は勅令通りに外国勢駆逐の確認を使者に託した。民衆の反応はこうだ。「やっと幕府は重い腰を上げ、外国勢駆逐を力強く鮮明にした。さあ、時が来た! 井伊直弼時代とは様変わりだ。斉昭ご子息の慶喜殿が将軍後見役であるからこそだ」、と。

 有識者たちの、水戸家、とくに水戸斉昭への尊崇の念は信仰にも匹敵した。慶喜はますます彼らの殿中(パンテオン)の一角を占めるようになった。