さらなる幾つもの紆余曲折の末、慶喜は遂に将軍と公言され、公式名は徳川慶喜となる。しかし、彼はこの期に及んで独特な言い分を強弁するかもしれない。自身だけの私的な適所を得ようとして、彼の言い分は、徳川家の当主を継ぐのであって、将軍になるのではないと。宮中も幕府もこんな気まずさや不自然さを許容するわけはなかろう。遂に彼らはもっと踏み込んで、彼を説得し黙認させようとした。慶喜はあからさまに彼らの要請を無視したが、側近の原市之進が陰で苦労し、両者を近づけさせた。最後に、慶喜(と言うか、我々はここから慶喜と呼ぶが)は将軍になった。
「私は将軍職に興味はない」。何度も何度も、言葉でも態度でも彼は嫌悪をあらわにしてきた。用心深い男の慶喜は、まず逃げ道を用意しなければ何事も新しくはじめることはなかった。この場合、世間的には彼はいやいやながらこの職に就くよう強要されていたとの印象を生み出してあるから、今何が降りかかって来ようと彼は守られている。いかなる苦難に会おうとも、彼は容易くそれを逃れ、どこか別の安全なところへ逃げ延びよう。彼の鋭い眼力は何かが起こることをすでに見極めており、だからその時求められる振る舞いを準備し、技能を注意深く鍛錬し、限界を把握して、その筋道を考えはじめていた。しかしそんな〝何か〟が起こらなかったら? その場合は百年将軍でいられる、と何の恥じらいもなく自身に言い聞かせた。臆病と勇敢は彼の中では奇妙に絡み合っている。
1867年1月10日、慶喜は第十五代徳川将軍に任命された。前将軍家茂の死後150日以上経過していた。その長い、主のいない期間に、幕府の行く先はまさに暗闇になっていた。
慶喜と徳川一統にとってもっと悪い前兆が起きた。3週間経とうとしたとき、孝明天皇が病で亡くなられた。
「幕府は終わった」、慶喜はすぐにそう思った。直接統治を天皇に戻そうとする考えが華やかなりし頃も、孝明天皇ご自身、常に断固として幕府の味方だった。彼は現状の将軍による統治の継続を支持していた。京都で幕府の威信をますます啓蒙している会津藩の行動に対して彼はほめたたえていた。そして彼は、京都守護職で会津藩主の松平容保を他のどの藩主よりも信頼し好意を持っていた。
「この現天皇がいてこそ我々は安心だ」、幕府派活動家はそう思っていた。幕府なくしては天皇崇拝はなかろうという信念〝公武合体〟の理論的根拠、それも孝明天皇の考えだった。そしていま、彼はいない。
次に即位されるお方はまだ14才の若者だ。彼の母方系祖父は前の参議の中山忠能で、母はよしこ様。祖父は公式の護衛であり、全ての宮中公式宣言に必要とされる玉璽の管理者だ。この老廷臣とうまく手を携えることによって、宮中のいかなる陰謀家も、真の敵は幕府であり、崩壊すべしというような、宮中公式宣言を発することができよう。
事実上、そんな陰謀家が二人いた。一人は岩倉具視で、彼は前の天皇の命で追放されており、もう一人は彼の無二の親友で陰の実力者である大久保一蔵。さらに、慶喜が恐れていたように、孝明天皇の死後10ヶ月、岩倉の側近玉松操が〝薩摩藩と長州藩への極秘宮中公式宣言〟を書いた。老公中山は若天皇の手に玉璽を持たせ、その宣言に押印させた。その間、大久保は京都西陣織の女性用帯でできた錦の御旗を手に持っていた。二人して、これで幕府倒壊の極秘計画への最終段階に入った。ここでは革命のようなときの勇ましい共謀者たちは一切必要ない。
慶喜は守勢に立たされた。共謀者たちを鷲のようにぎらつく眼で監視しなければならない。一瞬たりとも護衛を寛がせてはならず、敵対者たちの一挙手一投足に備え、即刻の対応が取れなければならない。この詳細極まる不変の緩急自在は彼の将軍職の間、1年と少し、続いた。その間彼は二条城内に身を隠し、それでも常に警戒を強いられ、ほっとすることは殆んどなかった。慶喜にとってはもとより、日本の歴史にとっても、この何ヶ月かの在職期間が極めて深刻だった。たとえスーパーマンであっても、体力・精神力ともに長続きできなかっただろう。
慶喜は侮れない将軍としての評価を得た。どんな大名・皇族でも彼を目の前にして優位に議論を勧められなかった。大名会議に出席しても、彼は従前の将軍たちのように単なる飾り物ではなく、司会者、主催者、解説者として、議事を取り仕切り、反論を負かしうる優れた論客でもあった。彼は単独歓迎委員会をさえ開き、彼らを議場に迎えて、それぞれの要望にじっと耳を傾けた。
ちょうどそんなときに京都政界で兵庫(現、神戸)を条約指定港として開港するや否やの論戦があった。その頃それ以上の論議をかもした問題は見当たらない。
「開港反対のかどで我々は幕府を倒す」、と薩摩の大久保一蔵は宣言し、彼の友人であるアーネスト・サトウ(英国公使の通訳)はこう見た。「革命の機会は消えたわけではない。もし兵庫が一旦開港されれば、大名たちのいかなる好機会にもサヨナラだ」、と。外交官でさえ、幕府は危機に瀕している、とはっきり言いえた。
1年と少し前、幕府は開港協約締結の栄誉にあずかれなかったとして西洋勢に責められた。その応答を迫られ、早急に開港すると誓わされていた。彼らはいまその誓いを実行すると期待されており、言い訳は許されない。
幕府唯一の逃げ道は:「天皇の承認がまだ下りていない」。西洋勢はこの声明に嘲笑をもって応じた。「徳川幕府は日本で唯一公式に認められた政府だと思っていた。つまりは、別のもっと上位の政府があると言っているのか?」。 これは外国勢との関係において、幕府のアキレス腱であり、このように指摘されることが何よりの痛手だった。
何人かの外国勢上層部はもっと言うことがあった。「権力のない政府と話し合うことなどない。それよりも我々は自分たちで京都へ行き、貴国の君主、帝にお目にかかる。それでいいですか?」。明らかに彼らは幕府が呆然となると予想した。そして事実、大騒ぎとなった。もし外国大使が皇居と直接交渉が許されれば、幕府は日本政府としての肝心の資格を放り投げていると、世界の目に映るだろう。国内国外ともに、そんなことになれば即崩壊と受け止めよう。何とか幕府は大使たちをなだめ得た。その間に、皇居は要望の承認書を発行するには至っていなかった。大久保は皇居の者たちの無知なる反外国感情をあおった。「長崎と横浜は別問題だ。京都の至近距離にある兵庫に外国勢の入港を許可すれば、それは日本に対する許しがたい冒涜であり、天皇に対して取り返しのつかない侮辱である。他方、この港への入港拒否を続けることは前から天皇のご意思だった」。こうした議論を通して彼は公家たちを自陣営に引き入れた。皇居が天皇の承認書を発行しない限り、幕府の権力は弱まるばかりだ。もし幕府が、以前井伊直弼がやったように、承認書なしで協定締結を強行しようものなら、それは敵の手の内に陥ることを意味し、敵はすぐさま黙っていられないとして、大名たちと組んで幕府打倒ののろしを上げよう。
慶喜が将軍になると同時に、この入り組んだ難題を解決しなければならなかった。1867年4月、彼は、英国、フランス、オランダ、米国の代表たちと会し、自信に満ちて彼らに保証したのは、「兵庫は開港されよう」。西洋勢はこの先例のない幕府による活力に満ちた披歴にキョトンとした。日本の不安定な内幕を考えれば、慶喜の言葉は極めて明確だった。日本の政治の複雑な事情に通じたアーネスト・サトウはいぶかった。彼は、将軍慶喜が言ったことを横浜と英国の新聞に載せていいかどうかを、大名たちを通して尋ねた。慶喜の答えはさらにもっと鈍感だった。「それは問題ではなかろう」。
薩摩との友好関係に拘わらず、サトウは快く慶喜を受け入れた。記憶をたどりながら彼はこう書いた。「将軍は、顔の色つやにおいても、広い額や凛々しい鼻筋においても、私がこれまで出会ったうちで最も貴族の容貌を有する日本人の一人です」。
慶喜の心は決まった。まず大改革志向大名会議を求めた。今回は土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、そして薩摩の島津久光だ。4人ともこの問題について必ずしも考え方が同じではなかった。
薩摩の島津は、大久保の影響を受けて、兵庫開港問題は長州問題の後回しでよいと強調している。「まずは幕府軍を長州から撤退させよ。そのあとで十分だ」、と。このように無関係なことを議題に持ち出すことによって、この議論の邪魔をすることに成功した。
慶喜は弁舌たくましく反論したが、彼の政敵である島津(本件がまさにそれ)は口下手で本来不愛想だから、首振り人形のように頑強に首を真横に振るだけで、時々別室に控えている大久保のところにアドバイスを求めに行ったりさえした。議論は堂々巡りを繰り返し、結論に至らなかった。5日後に慶喜は同じ4人を再び二条城へ呼んだ。山内容堂は病気で来られなかったが、他の3人は出席した。
正午にはじまって夕方の6時まで、会議は慶喜の独壇場だった。彼はしゃべり続けた。将軍ではあるが、彼らを対等に扱い率直に話した。欠席の容堂のアドバイス通りに行ったのは、島津久光を敵に回さないがためだった。会議メンバーが将軍との特別の話し相手だという明瞭な特権にあやかっている中で、彼らは喫煙を許され、灰皿を持参していた。雰囲気をもっと和らげるため、菓子類を種々用意し、3人に試食するよう自ら薦めた。これまでの将軍14人とも天国からこれを眺めたら、ぞっとして目を疑っただろう。そればかりでなく、ここで慶喜がしゃべったとてつもない言葉の数々は、疑いようもなく、これまでの将軍14人を含めて、公の場で話した全ての言葉の数々をしのいだ。
3人が疲れると、慶喜は小休憩を告げ、彼らを庭園に案内し、記念写真を楽しんだ。撮影技術はなんといってもまだ特技の領域で、日本最初のプロカメラマンが長崎に事務所を構えたのはわずか5年前だった。洋式かぶれの彼とて、慶喜は写真を撮られるのが大好きで、自分でも様々な自身の肖像写真を撮っており、中にはフランスから贈られた貴族用の軍服姿で馬にまたがった写真もある。
この日、3藩主を寛がせようと、彼は庭園の一角にしつらえた白い幔幕の小ぶり屋外スタジオに誘って座らせた。慶喜を含め4人一緒で写真に収まったあと、それぞれ一人ずつのも撮影した。春嶽の写真はよく知られたいつもの格好だ。弱々しくうつむき加減で、両手は人前らしく膝にきちんとおいている。島津久光は股を広げ、背は直立、カメラの向こうに目をやり、男っぽいわがまま顔は一方に傾いている。カメラは強国薩摩藩の当主としての誇らしさを完ぺきに捉えている。宇和島の伊達宗城の長顔も。
本題に戻って、この日も残念ながら、熟慮を重ねた会談も要領を得ないままで終わろうとしていた。慶喜は島津久光のだんまり反抗に屈していた。
慶喜は疲れた。持てる力を出し切り、相手なしの一人ダンスに見えた。江戸幕府のしもべたちは独り相撲以外の何物でもないと見、長年の友容堂と春嶽は彼ら各藩の入り組んだお家事情もあり、ダンスに加われない。生涯徳川家に忠誠である会津藩松平容保でさえ、慶喜に対して、とても話をまともに受けられない策略家とみた。そこにはこれほど有能な、明晰な、また孤独の将軍もいなかった。
一方見かけとは異なって、時の勢いが強烈に変化していた。慶喜が一人ダンスに勢い込めば込むほど、砂がつま先の下にめり込んでいくのを感じた。
夜になると、慶喜は決まって女を呼んだ。京都では大勢の枕友だちがいて、彼女たちといるときだけ、この終生の女たらしは心身ともに完全に自分の世界に戻った。その限られたところでは、彼は孤独を逃れ得た。一緒するすべての女の中で、彼のお気に入りは江戸から呼んだおよし、火消しの統領神門辰五郎の娘だ。彼女は黄褐色の地肌で、華奢だが首は据わっていて、真面目で話し相手にたけた生き生きとした持ち味、その全てがまさに江戸火消しの娘そのものと言えた。体も心も込めて、彼女は繰り返し慶喜を襲う江戸恋しの苦痛から逃れさせることに努めた。慶喜はおよしにだけ突然心の内を漏らし、彼女をひどく当惑させた。
「100の提案も100の議論も時の勢いに打ち勝つことはできない」、彼女にそう言う。彼はその時、栗色丸顔の島津久光を思い浮かべている。島津は慶喜の言い分全てに頑固だんまりで、〝ダメだ〟と言う時だけしか口を開かなかった。島津の反対にあって、将軍は自身の全ての案も議論もおじゃんだと感じた。なぜか? 時の勢いはまるで島津側なのだ。この無能者(慶喜はそう判断せざるを得ない)は時代の流れを表す巨大な背景の前で、背筋を立てて居座っている。慶喜はその面前で持てる全てを込めて踊るが、短気な島津はむずかる赤ん坊よろしく、微笑むことは一切ない。
慶喜自身時の流れを把握する優れた能力があるから、時の勢いに乗じた無敵男だとの確信は間違いなく彼自身の体内からきている。当然、一方的な超保守派の島津は自身の立場に居直り続けていたのだろう、等々。それでいて、慶喜の強烈な嘆きだが(時々そう感じていた)、彼自身が将軍なのだ。
兵庫問題を解決すべく、彼はもう一つの考えを持っていた。皇居、つまり開港反対の巣窟の広場に、力のある皇族や大名を呼んで大会議を開き、反対派を一気に論破すること。彼はすぐにその考えの実行にかかった。
しかし、薩摩は抵抗し、久光は大久保にあおられて欠席した。その結果、宇和島の伊達宗城は様子見になり、今後一切慶喜に同調せざるを得なくなるのではないかと恐れて、欠席。春嶽さえ来なかった。彼は幕府の将来に希望を持てなくなる他なく、それ故、これまでは擁護一本槍だったにもかかわらず、いまや慶喜に同調すれば、同じ穴の狢とみなされるのではないかと恐れている。春嶽もまた遅ればせながら、徳川家との絆を断ち、来るべき国難に対応すべく一本独鈷の大名たちの集団を形づくるという他の大名たちの立場に立っていた。早く慶喜とサヨナラしなければ、福井藩は彼と同じ転落の道を辿ることになろう。
それでいて、彼はまだ意志薄弱だった。将軍のしつこい勧めに折れて、彼だけが宮殿を訪れた。皇族たちは、二条、左大臣、右大臣、前摂政2名、大臣5名、他2人。会場は宮殿内虎の間だ。
会議は6月25日、暑苦しい日だった。宮殿の慣習に従って、夜8時に始まった。会議は長時間どころでなく、徹夜でも終わらず、翌日も夜8時まで続いた。何度か小休憩があり、仮眠も少しは許されたが、慶喜は司会者としてそれ以上の自由はあり得なかった。「帝国にとってこんな危機のとき、休むことなど許されない」と言い、早く帰ろうとする者たちを叱った。彼の見方では、皇族や大名をそろって付いて来させる唯一のやり方は全員を一部屋に封じ込め、論戦を強いることだった。それが彼の狙いだ。さらに、この20数時間に及ぶ会議で彼は熱情込めて大声で話すから、誰もうたた寝などできず、会議を通して完全に彼に聴き入った。出席者の全てが感銘を受けた。誰も彼と議論を戦わせる能力や話術を持ち合わせていない。最後に、翌日夜の11時、彼らは慶喜の案に同調した。公式には:兵庫を開港する。
このようにして、幕府は崩壊をかろうじて免れ、もう少し生き長らえるようになった。幕府崩壊を画策した者たちは当然歯ぎしりさせられた。彼らは残念がるというよりも、慶喜の怖さを学んだ。薩摩の西郷隆盛は将軍の居丈高な在り様を見て、考えをこう漏らした。もし慶喜が殺されなければ若い天皇のこれからが危ういね、と。彼は将軍慶喜に対する考えをその後も一切変えず、最後には江戸城攻撃を企むことになる。
木戸準一郎(後、孝允)は西郷よりもっと厳しい見方をし、仲間にこう注意した。「彼の勇気と識見は正しく家康の生まれ変わりだ。彼が我々の直接の敵である限り、薩摩も長州も一大決断を下さねばならない。さもなくば奈落の底だ」。さらに彼の敵を過大に認めて、「慶喜は関東の政府規定を改定して、軍事力を圧倒的に強力化した。崩壊どころか、幕府は再び盛り返しかねない」。
これは慶喜を買いかぶっている。そんな過大評価が恐怖をあおっていると思いきや、慶喜には祝兵庫開港のすぐ後で、幕府軍隊の攻略を仕掛ける内密の策謀が薩摩と長州で急速に進んでいた。同じころ、京都では岩倉具視と皇族の間で、「将軍職廃止の詔勅」の下書きが進められていた。迅速な行動こそが、慶喜の勢いが日増しに伸びることを防げよう。
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