最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

17. 逃亡と余波 (1)
 後年、寄る年波と体の衰えで、慶喜はあの夜の出来事を夢の中で不安そうに思い出していた。慶喜が夢に見ているような出来事を生涯で経験する人はほんのわずかだろうが、彼の場合、1868年1月7日夜に起こったことの思い出ほど、頭に焼き付いているものはない。
 あの日夕刻、彼は数千人の兵士を城内の広場に集めて、酒樽を開けた。彼らはそれぞれ桐でできた金色家紋入りの土器(かわらけ)の湯飲みを与えられた。当時幕府派の東本願寺がかつて慶喜に贈呈したものだ。彼自身が真っ先に湯飲みを口にあて、ぐいと飲み干した。全員後に続き、恒例に従って、空になった湯飲みを地面に投げて、これから戦場に向かう兵士の仕草をした。

 午後6時。陽は落ちて薄暗がりの中で城門を開けた。すぐに第一小隊が出陣。が、命令により明かりをつけずに進む。先頭の一個の提灯が案内役だ。見てそれとわかるように兵士それぞれが白い綿の紐を袖に巻いている。真ん中ほどで馬にまたがる慶喜だけが黒の家紋入りの衣装に二重の袖紐をつけている。将軍の印だ。白い紐の群れが暗がりの中を進む。他は何も見えない。
 彼らはお宮通りを下って三条で曲がり、西に向かう。千本通りから十字路に来て、そこで鳥羽道に入り首都を出た。
 彼は首都から逃げている。七条の明かりが後ろへ遠くなるにつれ、慶喜は現実の冷めた気分に取りつかれた。あの春の日、将軍の後見役として初めて首都に入り、宮殿を訪れた。あれから5年。徳川家一統の歴史で、その間に慶喜が味わった目まぐるしさに出あったものは誰一人としていない。彼は持てるありったけの力を振り絞って皇居と国のために尽くしてきたが、何の報いもなかった。今や彼は避難民のように首都から逃げるよう強いられている。才知と意思の力で彼はいつもは自身の劇的な境遇に対して感傷的にならないようにしている。が、この時一度だけ、冷静さが失われた。馬上で慶喜の頬は涙にぬれていた。
 「二度とここに戻れないだろう」。この思いが彼を女の子のように感傷的にしたが、思わず泣き叫ぶ衝動は抑えた。手綱を絞って背筋を立て、顔をやや前のめりにして進んだ。彼のすぐ傍にいる松平容保でさえ、慶喜の涙に気づかなかった。京都に戻れないという慶喜の直感は当たった。生涯二度と京都の土を踏むことはなかった。

 枚方で夜が明けた。
 大坂城に着いたのは午後4時だった。京都を去る決断があまりにも急だったため、こちらの城側は慶喜ともども部隊を受け入れる準備はできていなかった。夕食は慶喜の分しかなく、彼はそれを半々に分け、松平容保と共にした。
 その後京都の民間新政府(実際は岩倉具視と薩摩の面々)は居丈高だった。慶喜側を挑発しようとして、宮中からの要求を早急に果たすようしつこく迫った。容堂と春嶽は厳しい要求を緩和させるべくその交渉に全力を尽くしたがその間に江戸で悲劇が起こった。薩摩の浪人どもがわざと騒ぎを起こして幕府を挑発し、将軍側取り巻きは我慢ならず、山形部隊に薩摩屋敷に放火するよう命じた。この事件の模様が大坂に届き、将軍部隊は怒り心頭で、慶喜の命令を待つまでもなく配置につき、京都と大坂の間に散らばって、命令即対応の態勢に入った。状況は大将板倉勝清の統率を遥かに超えてしまった。
 板倉は慶喜に会いに行くが、慶喜は悪性の風邪で寝込んでいて、部屋を離れられない。しかし板倉は彼に何度も部隊を京都へ引率するようせかした。慶喜は病床から起き上がることができない。これまで数日間、彼はいろいろ思いめぐらし、京都の者たちの狙いは何なのか探ろうとしたが、判じえなかった。もし土壇場で京都へ戻れば、政界で地位を失うだけで(いくさ)には勝利しよう。大久保一蔵と西郷隆盛は負け戦を政界の勝利でつじつまを合わせるだろう。慶喜の心を占める政治家は板倉や幕閣ではなく、敵の大久保と西郷だ。まるで彼らとチェスゲームを演じているかのごとくに、大坂と京都を結ぶ13マイルの京坂道を行き来しているように感じた。

 この二人がいかに彼の心を占めているかの証拠として、彼は何度も読んでいる孫子の兵法を引き合いに出して、板倉にこう言う。「〝敵を知り己を知らば百戦危うからず〟だ。そこでお前に尋ねたい。全ての譜代大名や幕閣の中に西郷隆盛に匹敵する者はいるか?」。板倉はしばらく思いめぐらしてから、「ありません」。慶喜は次にこう尋ねる。「大久保一蔵に敵う者はいるか?」。板倉はうつむき、〝否〟と答える。秘かに彼は、慶喜が薩摩の闘将たちの名をよく知っているのに驚いた。慶喜は延々と薩摩藩士の名を次から次へと持ち出して、一人一人について尋ねる。「こいつに敵う者はいるか?」。何度も何度も板倉は残念そうに〝否〟を繰り返した。
「彼らにどのように向かおうとも、我々は勝てない。わかるよね」、と慶喜。彼の判断では、敵の策略の餌食になるのを避ける唯一の道は、無抵抗の服従だ。これまでの考え方を捨て去れば、このゲームは終わるだろう。

 しかし一連の出来事は、彼らとともに慶喜をやり込め始めた。配下の戦闘派は京都へ攻撃を仕掛ける決断をし、1月26日、戦車に反薩摩の昇りをなびかせ、1万5千人の全徳川部隊が大砲車両を引っ張り、隊列を組んで北を目指した。
 慶喜は同意するほかなかった。そして、彼の部隊の勇姿を目の前にして、今や勝利を夢見た。京都の薩長連合部隊は数で劣った。だから少なくとも今はこちらが彼らより優位なはずだ。首都を自軍の統制下において、皇居政府の統領を引き受け、薩長連合を国家の敵として攻撃しながら、所要の改革を成し遂げて、国の支配権を握るはずだった。申し分のない筋書きだ。
 「しかしこれ、一時(いっとき)の夢に過ぎない」、慶喜の理性はこの妄想を一笑に付した。仮に彼らが敗れたとしても、西郷と大久保は間抜けではないから、若い天皇を京都に置き去りにするはずはない。いや、彼らは天皇を連れ出して、安全な場所から勅令を全国の藩主や武士たちに発するだろう。尊王思想が満ち満ちていることを思えば、時を待たず国中の何百万もの兵士が京都へ向かい、慶喜とともに徳川政権の最後の痕跡を壊滅させるだろう。

 出来事が、大砲を積んだ戦車の(わだち)のごとく、ゴロゴロと次から次へと続いた。1月27日午後5時、鳥羽村で闘いが始まった。その後幕府軍は伏見街道沿いの薩長軍に銃撃を開始した。銃音が大坂城まで届く。日が暮れて、慶喜は城から北方を眺めると、夜空のその辺りだけが赤黒く染まっており、伏見町に火の手が上がっていると判断した。
 戦いの形成はまだわからない。
 前線からそれ以上の連絡はない。どの道路も混みあって、情報伝達は慶喜まで届かない。対峙して3日経った1月30日の夜7時、形勢が明らかになった。情報は伝達されたのではなく、退却した兵士たちで、大坂城まで一団が怒涛の勢いで逃げ延びてきた。城の広場は300年以上前に起きた豊臣秀頼の転覆以来ありえなかった大混乱を呈した。
 しかし会津藩士たちの戦意はいかほども失われていない。哀感を帯びた熱情を込めて、彼らは将軍に自ら自身の軍隊を戦場に率いるように要請し、幕府部隊も大声をあげて応じた。敗北は先頭部隊だけであり、もし慶喜が無傷の後続部隊を率いるならば、意気軒高し、勝利はわがものとなろう、と彼らは確信していた。ここに軍の英知があった。

 彼を急き立てる大音声を静められず、慶喜は大広間に入った。そこには部隊の指揮者たちが集まっていた。蝋燭(ろうそく)の明かりの中で、部屋は流れる血を布で押さえているものたちで占められており、中には重症の者もいて、いつもながらに平伏した。このすさまじい光景を目にして、慶喜は一瞬言葉を失った。板倉がすぐに彼らに駆け寄って尋ねた。「どうすればよいと思うか?」。
 即座に怒号高鳴り、全ての者が、「戦う!」。
 「何とかしよう」。慶喜はこう答えた。これらの者たちにどうすればよいか、これしかなかった。部屋を出てから板倉と監査役の永井尚志(なおむね)を呼んで、こう言った。「江戸へ帰ることにしよう}。
 板倉は驚いた。もしみんなが戦いに意気込んでいる城内に慶喜のこの言葉が漏れようものなら、彼はどうなるか。そればかりではなく、板倉自身も戦うべきだと宗旨替えしていた。戦わずして江戸へ帰るということは、彼にとって逃げるとしか考えようがない。永井も同じだ。慶喜は今やこの最側近の二人からも見放された。二人を騙さざるを得ない。
 「私は帰って、それから何をなすべきか、考えがある」、と彼は言い、あたかも江戸で腰を据えて最後の戦いを挑むように見せた。板倉と永井の顔はほころんだ。その場合、できるだけ早く江戸へ帰ることだ。しかしその間に、彼らは大坂城内で沸騰している意気込みをどのように持っていくか? 彼はそんな状況下で、そこから逃げ出せるとでも思っているのか?
 「どうなさるのですか?」
 「わからんのか?」、慶喜は我慢ならない。大坂港にオランダ製の幕府小駆逐艦〝海洋丸〟が停泊しており、そこまで辿り着けたら、あとは錨を上げるだけだ。
 〝殿の取り巻きもその他大勢も全部捨てることになる〟。板倉は咎めるように表情で示す。しかし慶喜はそのだんまりの抗議に反論する。「彼らはもはや取り巻きでも何でもない。彼らは暴徒だ」。
 自分は会津藩主の松平容保とその弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)を連れて行く、と慶喜は二人を見つめながら言った。彼らをここに残せば極めて危険だ。最大狂っているのは彼らの部隊なのだから。慶喜が去ったとなると、彼らは間違いなく小隊長らとともに大坂城を支配することになり、京都の新政府勢力に攻撃を仕掛けるだろう。それを避ける唯一の方法は彼ら二人をいわば人質として連れて行くことだ。

 板倉は二人の大名がどう出るか見つめた。二人が去れば、この二藩の兵士たちはどうなるか? 彼らは逃げるほかないだろう。それも見るに忍びない逃亡。
 しかし松平兄弟の言うには、この非常事態に、何よりも自分たちは総帥の慶喜殿を守りたい。信頼のあまり、彼らがとことん信じたのは、慶喜自身が彼らに身を守ってほしいと願っていると。
 「ここを去るやり方は任せなさい」、と慶喜。こういったときには、彼は独特の鋭敏さで考え行動した。すぐに立ち上がり、家臣たちでうずまった広間に戻る。取り巻きもみんな廊下伝いに続き、慶喜の行く手は大勢が群がって彼の袴を引っ張り、軍隊を戦場へ連れて行くよう懇願した。
 最後に慶喜はこう叫んだ。「戦場へ行くなら今だ。すぐに出発、そして戦う。みんな、用意しろ!」
 超満員の広間は揺れ、みんなは喜び勇んで戦闘に備えるべく外へ躍り出て、それぞれが配置に着く。その間に慶喜は城の奥まったところに引き下がる。間を置かず、松平兄弟を含む8,9人ほどの者たちと別の通路を通り抜ける。全員普段の衣装だ。だから城内を急ぎ足するが、群集と暗闇に紛れて誰も気づかない。
 10時頃。彼らは裏門からこっそり出ようとした。守衛が鉄砲を向けて呼びかける。「誰だ?」。 慶喜は平然として、「勤務交代だ」。
 彼はまさに天才だ。緊張を強いられた中で即座に反応できる慶喜の才は、だましの師匠と呼ばれてよい。いずれにしても、彼はそこにたむろする兵士のみんなを盲目(めくら)にしてしまった。

 彼らは川船で川を下り海に出て、夜遅く沖合に着いた。この真っ暗闇で海洋丸はどこか見当がつかない。じっと眼を据えると、すぐ前に大きな米国の戦艦が浮かんでいる。夜が明けるまでその戦艦に厄介になれないか。配下の一人に交渉を命じた。戦艦長は願いを受け入れて、思わぬ客に食べ物・飲み物を提供した。夜が白んで、彼らの帆船の在処(ありか)がわかり、あつらえられた小船がそこまで運んでくれた。海洋丸は朝霧の中ですぐに出港した。
 城内では、その頃やっと慶喜の居なくなったことが明らかになる。

 帆船が紀州海峡まで来て、慶喜は肩がほぐれた。板倉やみんなを呼んで、初めて将来に向けての自分の考えや望みを隠さず話した。江戸に着いたら、何の抵抗もせず、揺るぎない忠誠を誓い続ける、と。
 「我々は馬鹿にされている」、と彼らは思った。四方を海に囲まれ、一人の家臣も傍になく、容保と定敬(さだあき)は慶喜に対して何の手の施しようもなかった。
 「わかっていないのか?」、慶喜は容保にしつこく言う。容保は、頭を低くし顔面蒼白のまま、じっと図表を見つめている。一度は慶喜と運命を共にすると誓った彼は、今何が起ころうと、ただひたすらに肯く他ない。

 海洋丸は品川沖合に入り、11日夜、そこで錨を下ろした。翌12日の夜明け前に陸に上がり、海岸沿いの宮殿に直行した。地の者たちは多くの(ひづめ)の音で馬上の一団が駆け抜けたのは分かったが、当然ながら将軍が帰ったとは判断のしようがない。まだ朝早く、いかな江戸も静かだから、旗本たちは全く知らぬが仏だった。
 陽が昇ると、戦艦長の榎本武明は江戸に向かって大砲の音を鳴らさせた。赤坂の自邸で前戦艦隊長の勝海舟は黙って大砲の音を数え、大老か将軍への祝砲であると認め、「慶喜公が敗走してきたに違いない」と思った。間もなく使者がお召しの通知を携えてやって来た。急いで願いたいとのことです、と言って。
 勝海舟はすでに書状の中身が予想出来ていた。彼はこれまで慶喜に疎んぜられて、大した役職にあずかったことはなかった。だから慶喜が今彼を頼りにするとはいかにも異常なことだった。負けたからか、と勝は思った。全ての徳川家臣の中で薩摩と長州の愛国者たちの敬愛を得ているのは勝だけだった。多分慶喜は合戦終了後に彼の世話になりたいのだ。

 勝は海岸の宮殿へ直行し、中に入って庭園に案内された。そこには洋式の椅子が2脚置かれている。この寒さの中で慶喜と2人だけの会談のためらしく、明らかに2人の話が絶対外に漏れないようにとの配慮だった。間もなく慶喜が庭園に来て椅子に腰かけた。しばらく押し黙ったあと顔色が変わった。慌てて勝は(こうべ)を垂れた。慶喜の目は輝いていたが、次の瞬間、涙がどっと零れ落ち、頬中を伝った。京都を発ってからどの家臣にも見せていない慶喜の初めての涙だった。
 「彼らは錦の御旗を支持している」、と彼は端的に言った。合戦は1868年1月27日にはじまり、2日後に宮廷の権威を意味する錦の御旗が現れて、薩摩と長州を天皇軍と鮮明にした。それは即慶喜を謀反人、天皇に対する裏切り者とした。この汚名は決して消えなかった。彼は遂に自ら最も恐れる立場に追いやられた。この知らせを聞くや否や、慶喜は城を捨て、部隊を捨てて、江戸に帰った。彼は、勝が、性格も能力も彼と同じで、あのただ一言で全てを理解し、何の説明も要しない、とわかった。
 「この事態に対する適切な処置をとってほしい」と伝え、立ち上がった。そして勝より先に宮殿を離れ、馬にまたがって江戸城へ急いだ。彼が城内に入るのは、将軍になったとき以来だ。彼は前の和宮王女である静寛院(せいかんいん)に会うべく、大奥へ直行した。彼女は前将軍家茂の寡婦で、彼の姻戚でもある。彼は侍女にその旨伝えたが、願いは即座に却下された。天皇の敵には会えない、が前王女の伝言だ。

 次に彼は天璋院に会いたいとした。彼女は薩摩生まれで将軍家定の寡婦だ。彼の昔の朋友島津斉彬の娘でもある。彼女は応諾し、午後4時頃彼に会った。彼は起こった全てを悲惨な鳥羽伏見の戦いに至るまで彼女に話した。京都の宮殿から薩長連合隊を駆逐すべく彼の部隊が大坂から京都へ向かったが、市の南方の鳥羽伏見で哀れ敗退。彼は心の奥底をぶちまけた。話し方が分かりやすいから天璋院は深刻な状況を忘れ、話術のすばらしさに酔った。付き添いの箕浦花子は明治時代もずっと長生きして、この慶喜の言葉巧みさを当時有名な歌舞伎役者の団十郎の流暢なセリフより優れていたと何度も何度も繰り返し、録音しておけばよかったとさえ言った。敗軍の将で彼ほど輝かしく自身の敗戦を語ったものはあるまい。しかも彼はこのことをどこにおいても二度と繰り返すことのない立派な役者だった。後世、過去の話は一切口にしなかった。

 慶喜はこの時城にいる女たちに話しかけたかったが、同時にそれは政治的には緊急事態を無理やり知らせることであった。彼の望みは、薩摩とつながりのある天璋院が、彼に代わって皇居と外交的交渉役になってくれないか、加えて皇居とつながりを持つ静寛院にも同様の気持ちになってほしかった。彼女は最初は追い返したが、後で天璋院の仲立ちで彼に会うことになり、事の詳細を聞いて彼を受け入れ、彼のために京都へ働きかけさえもした。慶喜の天から授かった話し上手はこんな考えられない結果を醸し出した。
 彼が欲した次なる政治力は、いかに高くつこうが、絶対的な忠誠だ。皇族、大名、政治家といった現世でおなじみの大所高所には、歴史的に次の世ほどさほどに重宝されない〝忠誠〟だが、彼の体から謀反という汚らわしい匂いを取り除いて香しい印象を取り戻し、裏切り者の汚名から逃げ出すために、それは欠かせない。彼が政治家たちと争うにはほかに道はなかった。
 彼は着実に自らを敗北者に位置付けてきた。世のお涙ちょうだい好きはみんな、とくに悲劇、それも悲劇の英雄の持つ独特の弱さにしびれる。平安時代にさかのぼって、聡明にして不幸な武士だった源義経の生きざまは国民的にいとおしい人物像だ。慶喜は自身の人生をこのようにしたかった。彼がそれにこだわる限り、社会は圧倒的に彼を敗北者とみることになろう。そして彼が敗軍の将である限り、薩摩と長州は、世間的には、腹黒い悪党どもと色付けされよう。これが陰謀家慶喜が携える袋の中の最後の見せ場だ。

 この特有の献身を貫くため、彼は他のことを容赦なく犠牲にした。幕府家臣にこう伝える。「もう江戸に住むな。自分の土地のある者はそこへ帰って新しい生活を始めよ」。彼の言葉はみんなを当惑させ、嫌がらせた。最も哀れなのは松平容保と定敬(さだあき)の兄弟だ。彼らは慶喜に尽くそうとどんな努力もいとわなかった。彼らは皇居や薩摩・長州に軽蔑されたがゆえに、江戸城に入ることを拒否され、いわば町を追い出された。容保は会津に帰ったが、弟の定敬は領土の桑名が皇居隊によって陥落させられたために戻れず、残っている部隊を引き連れて越後に向かった。すでに天皇の敵であり、今や徳川にも見捨てられて、彼らに残されたただ一つは、原野か山裾で討ち死にすることだった。彼らに対する慶喜のやり方に憎しみを込めて、容保は後に思いを詩に託した。それは悲しみに沈んで、「この偉大な大木が自身の枝葉を見捨てるとは?」。

 慶喜の服従と忠誠心は日増しに高まっていった。3月6日、彼は江戸城を離れ、徳川家に属する上野寛永寺に引きこもり、自らを隔離した。最後に5月3日、勝海舟をして江戸城を皇居に明け渡させた。城明け渡しの朝。彼は寺を出て、江戸から先祖伝来の水戸へ向けて出発した。
 次の年、1869年10月、慶喜は自由の身となり、同時に時世から忘れられた。その頃、水戸から静岡に転居した。新しい徳川の領地だ。その時をもって慶喜は永遠に歴史から消えた。

17.逃亡と余波 朗読: 36:21

……………………

17. 逃亡と余波 (2)

 静岡では、かつては治安判事用に使用された邸宅に住んだ。まだ32才、若くしての引退だ。

 静岡に着いた日、慶喜はこう言った。「さあ、これから死ぬまでずっとここで暮らさなければならない」。その声は現実味がなく虚無的で悲しみに沈んでおり、それを聞いて小姓頭取の新村猛雄(しんむらたけお)はドキッとした。そして、殿でさえそんな気持ちや後悔の念に陥ると考えると、彼の喉はこわばって、やっと殿を見誤っていたと気付いた。慶喜が言いたかったのは、これから毎日が無限に長いのだから、好きなことに夢中にならなければ、ということだった。
 慶喜はそれからずっと様々な興味を追いかけるのに熱中した。彼の好きな気晴らしは、アーチェリー、ポロ、狩り、そしてタカ狩り。彼は何にでも完璧主義者だ。毎日握りこぶしからタカを飛ばす練習をする。それが終わると宝生流の能の語り、続いて油絵。慶喜は絵を描くのが好きだ。一橋家にいたころ、狩野探淵(たんえん)師匠の下で伝統的な風景画を学んだ。が、彼はわがままを通して油絵に進んだ。

 「将軍を辞めてうれしい時といえば、油絵を描いている時だね」と彼、退屈居士。彼は油絵の基本を前の家臣であった中島正太郎に学んだ。中島は美術の知識はかなりあったが、道具に事欠いた。だから慶喜は独自のやり方で描かざるをえず、画布としては明礬(みょうばん)の水に浸した綿の布を使った。油絵具はまたなかなか手に入らないから、あるもの任せで描いていた。
 写真撮影は常に慶喜を魅了した。引退してから、科学的にそれを学ぶことになり、度々暗室で現像作業に夜を徹した。彼はとくに風景の撮影が好きで、静岡周辺の景色を撮りまくった。

 刺しゅうも同じ。財布などを刺しゅうで作り、それらのデザインは、シャクヤク、カラシナ、菜の花、蝶といった比較的普段の柄。回りの人たちにあげた。
 一度大きな仕事に取り組んだ。出来上がったらそれを母の系統である有栖川王子に捧げる、と。しかし完成後作品が気に入らず、数日かけて糸を解きほぐしてしまった。
 「どうしてそんなことをするのですか?」と、周りの者が止めさせようとすると、慶喜は首を振った。もしこれを当初思ったとおりにすれば、死後に彼の手慰みの一つだと世間に知られよう。あってはならないことだ、と彼は言った。「なぜそんなことを? これも一つの刺しゅうなのに」、その者は思った。が、慶喜は歴史における彼の立場を痛いほど気にしており、後の世でどうみられるかに非常に神経質だった。

 彼は昔の家臣に会うのを嫌った。
 もし会えば、何らかの発言をせざるを得ない。どんなことでもそれが人づてに伝わり噂されるのを恐れた。彼が気軽に会った昔の家臣は渋沢栄一と勝海舟だけ。彼らはいわば彼と明治新政府との仲介役だった。1877年頃、渋沢が永井尚志を伴って会いに来た時、渋沢だけに会って、永井は遠ざけた。永井は前の監査役で、慶喜が京都にいたとき私設秘書だった。渋沢が今どの政府機関とも関わりのない経済人である一方、永井は貴族院の議長として新政府上層部の一人だった。慶喜がこのようにしたのは、明らかに新政府に誤った印象を与えないようにとの配慮だった。
 「私とも会って昔を懐かしむ思いはないのか?」、永井は戸惑った。京都にいる間、原市之進が暗殺された後、永井は彼の戦略担当として尽くし、同時に幕府の中心的な存在になった。天皇側が勢力を得てから、慶喜が江戸に戻り大坂城が陥落するまで、彼はひたすら慶喜のためにあらゆる事態に対処していた。慶喜が昔を振り返るときぜひ話し合いたい相手といえば、疑いもなく板倉勝清と永井尚志だ。しかし慶喜はこれを拒んだ。
 慶喜が口を開けば、その言葉のいくつかがどんな敵意を被ることも避けられない。彼が恐れたのは、世の人々がこれを聞いて、彼の側のうっ憤と受け取りかねないということだった。そんなことで、前述の2人、渋沢と勝以外のだれとも会うことはなかった。

 彼は松平春嶽にさえ会わなかった。明治維新後、春嶽は新政府の最も高位の人物となり、京都から東京(前の江戸)に移った。その途中彼は静岡で足を止め、何度も頭を下げたが、慶喜に会おうとしなかった。他の官吏たち同様、仕事柄東京と京都を行き来した慶喜の昔の知己も、誤解を招くと恐れて、静岡には近づかなかった。慶喜は彼らのこうした態度に傷つくどころか、喜んだ。彼は世間からできうる限り遠ざかりたがった。
 永井尚志は、慶喜の考え方を理解できたように見せかけたが、それは彼の懐旧の情ではなかった。理解を新たにするとともに、彼は、静岡に在住している前の将軍家臣の間で慶喜の評判があまり良くないことを思い出した。これより前に新政府は田安家の御曹司亀之助を徳川家の当主とし、一方で静岡に70万石を与え、彼を東京からそこへ引っ越させた。5千人ほどの幕府家臣が彼に伴われたが、彼らは俸禄なしを承知していた。到着しても宿があるでなく、彼らは間に合わせの商家や農家の屋敷に泊めてもらい、貧窮極まる生活に入った。こうした最悪状態の真っただ中で、慶喜は見慣れないいつもと違う様子を楽しむ気持ちで時々町を自転車で回り、昔の将軍家臣たちの間で、高貴なお方は我々の気持ちなどわかるはずはないとの不快感を醸し出させた。
 はるばる静岡まで会いに行ってしかも追い返された永井尚志には、慶喜はこのようにも見えた。慶喜の情的生活は普通に生まれ育った者たちとはどこか違っていると。慶喜はこれから静岡に30年隠遁することになる。1888年に鉄道駅舎が彼の家近くに造られた結果、騒音に悩まされ、引っ越した。あたかも世の人々から遠ざかるためには、何でもやって見せるかのように。

 その間彼は大勢の子供の父親になった。実に、引退生活の間、子供たちの父親になるべく専心していたようだ。1881年、最初と次の男の子に恵まれた。次の年2人とも亡くなり、3番目の子息が生まれた。次の年その子も亡くなり、子女が生まれた。何と忙しい。当然母親は一人ではない。成人まで生きた子供は21人、男10人、女11人だ。
 1897年、慶喜60才のとき、邸宅は名うての強盗に押し入られ、財宝は壊され、徳川の財産がかなり持ち去られた。強盗たちは間もなく捕まったが、これが慶喜にこの家に住み続ける気を失くさせ、その年11月に東京に戻り、巣鴨に居を構え、維新以来初めて東京市民になった。今までどおり、世捨ての静かな生活を続けようとしたが、有栖川王子が同情し、城に無理やり来させようとして、こんな風に言った。
 「ようこそ東京へ。こちらに住むようになったのに、まだ私たちに会いに来ない。どうしました?」
 しかし慶喜は辞退した。彼は一度天皇の敵というレッテルを張られている。以来自粛してきたが、まだ自ら課した懲戒の日々であり、城でお会いする気持ちはない、と言って。
 有栖川王子は誤解していた。というよりも、多分本質的には理解していたのだろう。彼の思いは、慶喜が天皇の敵とのレッテルを張られたことを気にしすぎている、ということ。そして多分それは正しかった。慶喜は自ら権力を放棄したのに、それでもまだこんな羽目になるとはと、ひどく憤慨していた。彼の極度の憤慨の矛先は皇居ではなく大久保と西郷、どちらも薩摩の人物だ。
 薩摩と長州に対する憤慨は彼の心の中で鬱積していた。ある時付き添いにこういった。「長州の者たちは最初から幕府を彼らの敵とみていた。だから彼らを何とも思わない。が、薩摩の者たちは違う。初めは幕府に友好的で、協力して長州をやっつけた。しかし状況が変わると、表面(おもてづら)では幕府との友好が続いたが、その間ずっと裏で陰謀を企て、遂には裏切りに至った」、と。

 こうした話が広がって、有栖川の知るところとなっていた。あの慶喜の宮中訪問拒否にはこうした憤懣が原因していると思う、と彼は語った。「あの男たち(と大久保、西郷をほのめかし、)が裏をかいたのも、思えば20年以上も前だ。その頃を覚えている多くの者は亡くなっており、全て今は昔。こだわり続けてもなんの役にも立たない」。
 慶喜は、彼らを憎んではいない、と丁寧に言い訳し、逆に、彼らは今や国を支える長老政治家だと言った。それ以上言い募らない。拒否すべき理由がないのだ。
 「私は洋式の衣装は何も持っていません」と、最後に彼は子供じみて取り繕った。
 有栖川王子は固く首を振り、そんな衣装は必要ないとはっきり言い、一体全体洋式を身にまとって何をしたいのか、と。
 王子には彼を呼ぶ理由があった。慶喜は階級も資格もない。彼は落ちぶれた貴族でも武士でもなく、かといって一般庶民でもない。彼は有栖川家と濃い血縁関係にあり、さらに現皇后とは遠い親戚だ。以前大名だった松平兄弟は貴族となり。その上司だった慶喜は何の地位も得ていない。それは奇妙だ。
 ともあれ、維新なって30年、全てが歴史の中。世が静まり、大所高所から振り返れるようになった今、もし慶喜が徳川勢を波風立てずに降伏させなかったとしたら、何が起こっていただろうと想像するのも一興だ。明治政府のだれも表立っては言わないが、その多くが心の内で思っているのは、明治政府誕生の最大の生みの親は徳川慶喜を置いて他にない、ということ。彼に何らかの褒賞的地位が与えられそうだとの話があり、それもあって彼の宮中訪問が期待されていた。
 慶喜は渋り続けた。勝とだけその件の話し合いを約束し、それが実現したとき、勝は彼に諸手を挙げて後押しすることはなく、もらってもいいのではとだけ言った。

 やっと慶喜は宮中に現れた。1898年、慶喜61才。こんな時用に作ってあった洋式の公式衣装を意識的に着用せず、タチアオイの家紋入りの黒い着物姿で、前に住んでいた江戸城への石段を上った。
 和室に案内される。洋室でないのは、彼の衣装に合わせた半面、明治天皇が彼をできるだけ家族の一員のように迎えようとしたからだった。慶喜は用意された座布団には座らなかった。接待主は天皇と皇后だ。皇后が自ら給仕し、最初は彼に酒を酌した。慶喜は京都にいたときから皇后を知っていた。一条家に出入りし、その時皇后はまだ少女だった。彼女も慶喜のことを覚えているはずだ。その頃彼は日本の統治者だったのだから。
 慶喜は何事もなく御前を退いた。
 翌日天皇は伊藤博文首相を呼んで冗談まがいにこういった。「昨日私はやっと慶喜に感謝の気持ちを伝えることができた。喜ぶべきは私だ。彼から一国を譲り受けたのだから!」。この話は非常に明治天皇らしくて、それを伝え聞いた者全てに好印象を与え、広く知れ渡った。

 4年後、慶喜が徳川家の新しい分家になろうとし、法により貴族に位置付けられ、侯爵の位を賜った。
 その後の1903年、慶喜は維新後初めての長旅で大阪(前の大坂)へ行った。今は第4連隊の指揮下にある城に入って、天守閣まで上り、遠くを眺めた。連帯本部長らが付き添っている。彼らは慶喜がそうしている間、礼儀正しい距離を保ち、明らかに彼の脳裏を行き来する思いや感情を邪魔しないように心掛けた。それが済むと、彼らは城の東に構える煙突を多く備えた大砲工場に案内した。彼が昔から銃砲に特別の興味を持っていたことを知っていた。しかし驚いたことに、慶喜は新しい大砲群には何の興味も示さなかった。何よりも彼の目を捉え、魅了したのはそこで作られている兵士たちの釜めしの釜だった。
 「これ、どのように使うのですか?」、彼は釜を手に持ってつくづく眺めながら尋ねる。彼らはそれでご飯や水をどのように調理するのかを詳細説明し、一つをお土産とした。彼は喜んだが、次にこう質問する。「ちょっと聞きたいのですが、アルミは体に良くないのでは?」。彼はこれを毎日の食事で使用したい。案内者たちはわからないから答えに窮した。
 常にわからないことをそのままにしておけない慶喜は、銀なら問題ないはず、と思い、東京に戻ってから、銀の延べ棒を大砲工場に送り、なんとかそれで銀の釜を作ってくれないかと頼んだ。彼らはそのようにし、出来立てを彼に送った。慶喜は大変喜び、亡くなるまで、日に3食欠かさず、彼のご飯はその釜で炊いたものだった。

 慶喜は日露戦争を取り巻く熱狂の目撃者だった。この戦争は次の年に勃発し、日本の勝利で終わるが、彼は結果に全く無関心だった。日常の出来事全てに無関心なのではなく、昔はあらゆる新聞を読みふけった。1910年に無政府主義者の代表幸徳秋水が天皇暗殺を企てた容疑者として、11人の同志とともに逮捕されたとき、慶喜の思いは、天皇と天皇制は、彼と徳川家が歩んだと同じ運命にあるということだった。子供たちを集めて、彼はこのように諭した。「今の世を生きていくためには、全ての者、女性さえも、職を見つけた方がよい」。それが、彼の最初で最後の父親としての教訓だった。

 古希(70)過ぎて、今や76才。軽い風邪をひいた。1913年11月だ。間を置かず、体温が摂氏39.4度。何度も医者に同じ言葉を繰り返して訊く。「もし肺炎なら、死ぬ覚悟はできています。肺炎でしょうか?」。事実、彼が心配したとおり急性肺炎だった。
 死ぬ間際に医者が、彼の枕元に寄りかかって、「痛みますか?」と尋ねる。慶喜は意識朦朧の中で、容態を極めてし烈に、「いや、そろそろのようだ。痛みはない」。これが最後の言葉だった。数分後の午後4時10分、彼は息を引き取った。1913年11月21日。

 葬儀は30日午後、徳川家の寺院寛永寺で執り行われた。初代の家康からずっと、将軍の葬儀は天台宗と浄土宗の僧侶によって営まれてきたが、慶喜の葬儀は、彼の意思により、神道の儀式に従った。神道は水戸の公けの宗教であり、慶喜は水戸人として見送られたかったようだ。

 葬儀には天皇の特使をはじめ、300人以上の前大名や、多くの今はその名が消えた旗本の家族たちが参列した。驚かせたのは、数多くの外国代表が参列したことだ。彼らの観点では、一国の前当主の葬儀であり、だから当然の儀礼として参列したのだ。米国大統領ウッドロー・ウィルソンは日本の外務省を通じて、公式にお悔やみの書状を献花とした。これまでわが国の当主の葬儀がこれだけの盛大さを見せたことはあるまい。

 「最後の将軍がお亡くなりになった」、と世の人々は言い、(ひつぎ)が運ばれる大通りをうずめた。特記に値するのは、東京市中全ての火消し組が花を添えたこと。この儀式のために新調した真新しい衣装・制服で着飾り、かつて彼らの一人神門辰五郎に目をかけてくれた最後の将軍を最大の敬意で見送るべく、通りに整然と起立して並んだ。

 徳川慶喜の死とともに、江戸時代は突然昔に遠のいた。この日をもって、慶喜はもはや消え去った昔を懐かしむ人々の心に仲間入りすることになった。