最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

01. 大望
 人の一生は、時としてそれぞれが物語と言えないか。その人だけのテーマがある。
 日本の歴史で江戸時代、その徳川幕府第15代で最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)は、前半生で、類例が見当たらないほどの一国の恐怖と熱情の数々を自身の生き様(いきざま)で示した。その道程が彼の生涯の大半のテーマを占めている。

 彼は将軍直系の生まれではない。徳川家傍系主流親族たる御三家の水戸藩で生まれた。他の御三家は、いまでいう和歌山県の紀伊藩と愛知県の尾張藩だ。茨城県の水戸藩は、その中で禄高も威勢も一番劣っていた。他の2藩は幕府での大老職を誇っていたが、水戸藩はその職にはなかった。紀伊と尾張の子孫は、徳川本家が万一跡取りに恵まれない場合は、将軍職を引き継ぐ資格を保持していたが、水戸藩はそうではなかった。そんな権力構造で、水戸藩は差別を受けていた。

 まだ水戸が優先扱いを受ける道筋が一つあった。すべての大名や藩主は法令によって幕府の拠点(江戸)に出仕・在住が義務付けされており、1年おきに江戸と自藩を住み替えさせられていたが、水戸藩主だけがその標準義務に煩わされることなく、永遠に藩地に踏みとどまることができた。この1年おきの参勤交代制が他の全ての大名に課したのは、その間妻子・一族を人質として離れ離れの状態で、将軍のおひざ元に駐在させることだった。水戸藩主は、彼だけが常時江戸で将軍に直接仕えていたために、非公式に〝幕府の副将軍〟として知られていた。有名な水戸黄門(家康の孫、徳川光圀)の時から幕府はこの特権を水戸藩主に授けた。公式にはそのような地位はなかったが、それが、幕府が水戸家の無言の権威にかんがみて鷹揚にもてなした一部始終だ。

 その家族で慶喜が生まれた。正式の呼び名は〝よしのぶ〟だが、即位前まで呼び慣らされた〝けいき〟が今なお一般的だ。
 (以降、この書では〝けいき〟と呼ぶ。)

 慶喜の父で水戸大名の徳川斉昭は、天皇への絶対忠誠と、将軍家による権力への介入に対する敵意を公言してはばからない尊皇派の英雄だった。〝水戸の大老〟と敬われた水戸藩主・斉昭は、外国人を日本から遠ざけ、天皇と大大名の権力増強に狙いを定めた改革の熱烈な主張者だった。彼が健在である限り、忌まわしい海外野蛮人の侵入はありえず、日本は安泰と信じられていた。徳川幕府が国際通商を禁じた結果、日本の海外とのつながりは目こぼしのみという長期にわたる鎖国制度下にあった。しかし、徐々に国際圧力が加わり、沿岸沖に戦艦が現れるようになった。忠国家臣は日本の神聖さが損なわれかねないと憤慨する一方で、西欧の強大な戦力を恐れる。何としても海外からの侵入を阻もうとの一念で、斉昭の足下にひれ伏した。

 徳川斉昭は大した能力の持ち合わせはなかったが、血気盛んで、儒学者藤田東湖が率いるとてつもなく優れた幕臣に恵まれていた。水戸家はまた水戸学の本家で、この学派は17世紀末に創始された歴史学の国を挙げての学派で、熱烈な尊王攘夷(天皇を敬い、野蛮人を追放、という徳川時代末期の運動)の哲学的母体となっていた。斉昭自身、副将軍であることを重く受け止めて、権威と誇りを胸に江戸城で振る舞った。愛国者の目に彼が英雄と映ったなら、それは彼の知ったことではなかった。

 斉昭は、事実上、病的な女たらしだった。彼は、江戸城において将軍に奉仕する女性だけに与えられた何人(なんびと)といえどもお出入り禁止の一画である大奥の中にまで入り込んでいった。そこで彼女たちを手籠めにしようとした。その結果、大奥の権力ある女性たちに大嫌悪された。だれ一人の味方もなく、それは彼の政治力にも極めて高くついた。しかも、多くの女性に交われば結果は見え透いている。斉昭は21人の子息を造り、彼らのうち12人は成人した。6人の娘も。多くの子供は幕府の家督の相続人ということだ。

 彼の妻は京都御所の出。だから彼女は皇族で、仁孝天皇の婿養子有栖川皇太子の娘だ。結婚前には皇女登美宮吉子として知られていた。縁組が申し込まれたとき、仁孝(にんこう)天皇は喜んで同意しこう話した。「水戸は武臣の家系だが、幾世代にもわたって皇族に忠義だ。理想の縁組ではないか」。

 御所で皇女吉子は、才知と美貌の持ち主と高く評価されており、その話が水戸まで伝わっていた。斉昭は彼女にほれ込み、こう言った。「美は褪せていくが、才知は代えがたい。立派な息子に恵まれたい」。ほどなく彼らの息子が誕生した。斉昭はすでに別の女性との息子がいたが、今度の正妻の息子は当然水戸家の跡取りと目された。名は鶴千代(のちに慶篤(よしあつ))、水戸家相続順位の10番目だ。おとなしい顔立ちで、物腰は皇族のようだった。品性は魅力なく、父の斉昭が尊ぶ武勇に欠けた。斉昭はがっかりし、皇族の軟弱な血がたぎっている、と呼ばわった。

 その後5人の息子が次々と生まれたが、全てが妻からというわけではなかった。彼らは生まれた順番で、このように名付けられた。次郎麿、三郎麿、四郎麿、等々。2番目と5番目は正妻の息子だったが、一人は幼児期に亡くなり、もう一人は、鶴千代同様、京都御所宮人(みやびと)の活気に欠ける特徴と個性の持ち主だった。斉昭は、自身の血のつながりを消してしまうような、子供たちに宿る宮中の血を嘆いた。そして1837年に妻は慶喜(7番目の子で、幼名は七郎麿)を出産した。幼児がまだおむつの時から、斉昭はこの子をじっと見守り、最重要疑問に対する答えを我慢ならず欲した。〝この子はどちらの血統を身に帯びているか?〟

 斉昭は数多くの風変わりな性癖の持ち主だった。その一つが教育癖だ。ほとんどの大名と違って、彼は息子たちが何をどのように教わるのかに異常な関心を持った。彼自身、少年として、乳母に教わることを忌み嫌った。「男は男によって育てられなければならない」と、忌み嫌っていた乳母に代わって何人かの頑健な家臣に養育してもらうよう、父に主張した。法的には、参勤交代制で、大名の子息は常に江戸に置かれていた。それでも斉昭は、彼の子息に特別の許可を要請して受け入れられた。子息たちは江戸の水戸屋敷で生まれようが、幼児期に水戸藩へ連れて行かれ、藩内の無骨な武士の手で育てられた。斉昭が心に決めていたのは、彼の子息たちが天下の江戸で豪勢な暮らしに毒されないことだった。

 このやり方が家訓となって、慶喜も江戸ではなく水戸っ子として育てられた。誕生の年に、彼は両親から離れて、常陸(ひたち)の水戸城に住むようになった。彼が10才のとき、父は水戸に戻って息子が何と立派な若者に成長しているかを誇らしく眺めた。それから何年かにわたって時折水戸に戻る都度、斉昭は息子の成長にますます満足し、将軍側近の老中たちに鑑定家まがいの自身の見立てよろしく確信に満ちてこう予測した。「私の言葉に耳を貸してほしい。あの少年はちょっと違った成長をしている」、と。一度だけだが、彼の息子が、京都のひ弱な皇太子とは違う、というような素振りをした。

 彼は内心、慶喜が徳川家の偉大なる始祖・家康の生き写しであることを期待した。「よく育ててくれている」と、水戸藩の側近や保母から城の別室に控える女性に至るまで、彼は息子を養育しているだれかれかまわず感謝した。当然ながら、水戸武士はこの少年に主君と同じ期待を抱いた。しかし斉昭は、大名は居並ぶ武士たちよりも強くなくてはならないと信じていたから、子息たちはそれに応じた厳しさで鍛えられた。慶喜への期待が深まるにつれて、育て方ももっと厳しくなった。

 戦士は睡眠中は真っ直ぐの姿勢で横たわっていなければならない、が斉昭の信条の一つで、予告もなく慶喜の寝室に入り、彼の寝姿を調べた。いつもよくなかった。ついに彼は付き添いを呼び、厳しい命令を下した。「床であんな寝返りを打ったら、武士の風上にも置けない」。両側とも太刀の刃で囲んだ木の枕で寝るように強制し、極度の注意を払って寝返りしない限り、頭や顔を強く傷つけかねないようにした。

 これだけではなかった。守役の井上勘三郎は常に慶喜に寄り添い、寝間では右手を下に隠して寝かせた。こうしておれば、戦士としてたとえ眠っている間に敵に襲撃され片手を失おうとも、右手の力が十分残っているからやり返すことができよう。結果的に、このようにして寝ることが慶喜の一生の習慣になった。

 少年として、慶喜はこうした訓育の価値を決して疑わなかった。たとえ、大名は選ばれた戦士だという父の信念ゆえに、彼への仕付けが他のどんな士族の子息よりはるかに厳しくてもだ。彼の衣服も寝間着も全て粗悪な麻か綿製で、絹などかけらもなかった。彼の一日は夜明けとともに始まった。顔を洗って、師匠に倣って儒教の四書五経の一部を大声で朗読する。それが終わって朝食。食後は10時まで書道だ。それがすむと他の子供たちと一緒に寺子屋へ。昼食後は若干の自由時間が許された。午後の残りは武道に夢中になる。夜は、夕食後、早朝の朗読から今まででやり残したことをすます。そしてその日を終える。これが絶対の決まりだった。

 養育の過酷さにかかわらず、慶喜は生来従順ではなかった。父の斉昭が無理やり従わせたのだ。少年は武道に熱中し、朗読を忌み嫌った。師匠は途方に暮れてこう脅した。「もし朗読が嫌ならお前の指を燃やさざるを得ない」と。遂に師匠は彼の人差し指を引っ張って捕まえ、その上にどっさり燃えているもぐさを擦り付け、皮膚を焼いた。が、慶喜は文句を言わずに我慢し、大声で朗読するくらいならまだましと叫んだ。彼は、指が(ただ)()れるまで何度も何度もそんな仕打ちを受けたが、懲りなかった。

 為すすべなく、師匠は状況を斉昭に報告し、斉昭は即座に少年を監禁するよう命じた。そのために大部屋の一隅が閉ざされた。戸締りがしっかり施され、少年は中に隠蔽されて食事も与えられず、痩せていった。あまりにもむごい仕打ちで、少年も少しは従順になった。しかし彼の学習態度は熱が入らないままだった。20代まで慶喜は書籍学習に興味を持たなかった。彼の幼年教育については、優れた幕府幹部の川路聖謨(としあきら)の容赦ない言葉に集約される。「武道七対学習三とは何だ! この(かたよ)りがなくなるまで、彼は水戸の御曹司ではない」。

 一般論として、幼年の慶喜は、向こう見ずで無頓着、少しずる賢くてかわいさに欠けた。城の侍女たちには嫌われた。五男の兄は優しい子で、侍女たちとひな人形をいそいそと並べていた。ある日慶喜は兄の遊んでいる部屋に押し入り、叫んだ。「兄サ、こんな馬鹿げたことやるなよ!」。飾ってあるひな壇からいくつか人形をつかみ取り、床に投げつけて、粉々に壊した。兄に付き添っていた侍女たちは、〝この七男はどうしようもないガキね〟、と声を潜めて言いあった。

 こうした無謀な振る舞いにかかわらず、斉昭が常に慶喜に高い望みを託していた理由は、彼の書道での筆運びが活気・大胆だったからだ。手は持ち主の性格を表すと信じられており、このことで、斉昭はこの少年の飛躍を確信していた。内心彼は、〝いつか慶喜を将軍にしたい〟との望みを隠し持っていたのかもしれない。

 一度、紀伊徳川家から水戸の子息を跡取りとして養子縁組したいとの要請があった。権力ある紀伊家に縁組とはまたとないことだった。藤田東湖がこれを初めて斉昭に話したとき、彼は素早く慶喜の除外を言い渡した。斉昭は、跡取りである鶴千代(長男の幼名)に何かあれば、七番目の子息である彼に引き継がせるつもりだったから。「五郎麿がふさわしい。この五番目は人形と遊ぶのが好きで、良し悪しは別として、決して大物にはなれないだろう。どこかの跡取りに送り出すにはこの上ない」。たとえ御三家の最高峰である紀伊徳川家であろうと、少年慶喜を送り出すことに斉昭が気が進まないのは、彼がこの少年を予備軍にしてどけておく以上に、別の何らかの目論見があったというような、確からしいうわさがあった。(跡取り要請は立ち消えとなり、慶喜の兄は、紀伊家ではなく、鳥取の池田家に縁組し、いくいくは鳥取藩池田慶徳(よしのり)となる。)

 慶喜には別の運命が待っていた。1847年夏、10歳のとき。老中首座の阿部正弘は、水戸家の家老中山を呼び出し、こう話した。「内緒で伝えられているのだが、将軍は慶喜を一橋家の婿養子に迎えたいとおっしゃっている」。内密であるなしに拘わらず、この話は第12代将軍徳川家慶の命令に等しかった。

 中山の返事は即座で、毅然としていた。「なぜ大殿のご子息ではいけないのですか? 誰か別の者がいいですよ」。彼は続けて、斉昭の慶喜に対する高い望みと外に出す考えのないことを説明した。

 この男は馬鹿だ、と阿部正弘はこらえきれずに思った。この要請の裏に何があるのか、知らないのでは? 彼自身眼識があり、当時幕府全ての家臣で最高に有能との評判を得ていた。国を皇室の統治に戻すべきだとの熱烈な主張ゆえに幕府と将軍家に忌み嫌われているこの水戸の危険人物たる徳川斉昭に、彼はどこか惹かれていた。内密に、阿部は日本列島の海上防御という至難の問題に対処すべく、斉昭と手を組もうとも考えていた。

 米国海軍准将マシュー・ペリー率いる〝黒船〟はここ数年、まだ日本の海上に威勢よく入り込もうとしていなかった。が、依然として西欧の戦艦が時折り現れ、幕府を恐れさせていた。阿部はなすすべなく、ひたすら斉昭の知能と勇気と評判をよりどころにした。その斉昭は、将軍家支配反対のみならず、外国人撃退の最先鋒だった。しかし斉昭は、政治思想・行動におけるその過激な性格のかどで江戸屋敷での蟄居の罰を受けていたから、阿部はこうした事柄で、自身の考え方を公けにしなかった。

 毒野菜でさえも、調理法を心得ておれば、薬として役立てうるという理屈で、実践派の阿部は斉昭をこれからのお国のために隠し味として使おうと決心した。一橋家からの婚姻要請に必ず斉昭が快諾するだろうことを阿部は先刻承知だった。彼は中山を派遣する際、〝このような途方もない考えが彼を喜ばせよう〟と、「少年の父に面と向かって話せ」、と彼はせかした。

 斉昭は、江戸の小石川自邸で、将軍の内密の要望を聞いた。阿部正弘の読みは当たった。斉昭はその場で受け入れた。

 慶喜は将軍になれるかもしれない。斉昭をこの結論に導いた深慮遠謀は、囲碁の師匠がはるか先を読むに似ていた。まず、現将軍の家慶は病気がちで、長生きできないとみられている。なお悪いことに、彼の跡取りたる家定は生まれながらにひ弱で病弱、そして身体的に女性との交わりは不可能だったから、若くして子孫を残さずに亡くなるとみられた。徳川家の存続は婿養子ということになろう。その候補は御三家のうち紀伊、尾張か、またはその下の御三卿である一橋、清水、田安からのみ考えられよう。そして慶喜は今や一橋家に婿養子することになっている。まさに時を得たのだ。

 事実、絶好のチャンスだった。他の二家のうち尾張は蚊帳の外だった。最近他系から養子縁組していた結果、将来の将軍にふさわしいものを擁立する資格を失っていた。そして紀伊家の若殿・斉正は、菊千代を授かって1年とたたないうちにこの世を去った。そんな状況下で、どの御三家も跡継ぎの任を帯びる若者を差し出しえない。加えて、御三卿である田安の君主・慶頼は成人に達したばかりでまだ子を設けていなかった。そして清水家は2年前に君主の斉かつが亡くなった結果、紀伊家に跡継ぎを申し出ていた。残るは一橋家だけ。ここでまた、悲劇に悲劇が覆いかぶさった。何世代にもわたって、この徳川一族は家系存続のために養子縁組せざるを得なかったが、不思議なことにその者たちは全て若くして亡くなっていた。本来なら跡取りになるはずの尾張家での若者・正治は、病床でまさに死の間際だった。だから、慶喜が一橋家に婿養子になった頃、将軍家が跡取りなしで途方に暮れることになっていた。そうこうして水戸家は最終的に将軍を生み出すことになろうかも。

 このようにいろいろな出来事が入り組みこんがらがったことは、250年の徳川幕府時代を通してあり得なかった。(その前の5世紀に亘る戦国時代でもこんな事例はない。) それが斉昭にのしかかったのだ。もしそんなあり得ない事態が生じたら、将軍の父となる斉昭は江戸城本丸で大いなる権力を行使することになろう。彼は自身の子息である将軍の統治を差配し、大奥の厳しいしきたりも黙らせよう。そう思うと彼はぞくぞくした。彼は野望家だから、当代将軍の側近から誤解され、遠ざけられていた。が、差し迫った海外諸国による占領の危機下にあるとみる、国家存亡に対する愛国心極まった心配と憤慨で、彼の野望がいきり立った。いずれにせよ、彼は日本国家の手綱を握る決心をした。

 「あいつ、阿部は能なしではない」、と彼は阿部正弘に敬意を払い、阿部の内密の打診は受け入れられることになった。事実、阿部が29才の明敏な福山城主で幕府の重臣を知らないではなかった。その阿部が不明瞭なやり方でも彼に手を差し伸べていることが分かり、驚き、彼は側近を使わして承諾を伝えた。

 斉昭の承諾を受け、阿部は自身の政治天性の確からしさに内心ほくそ笑んだ。若者の慶喜については何の知識もなかった。彼が何よりも心に抱いていたのは、父の斉昭がこの子息に夢見る途方もない大望の噂だった。

 そんなことで、斉昭の父としての期待が噂を呼び、噂が七番目の子息を思いもよらぬ運命に導いた。